ファイナンス 2019年4月号 Vol.55 No.1
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財務総合政策研究所Ministry of Finance, Policy Research Institute1.はじめに皆さんこんにちは。スポーツ庁長官の鈴木大地です。私は普段は隣のスポーツ庁にいますが、財務省の食堂もよく利用していますので、私のことを見かけられた方もいらっしゃるかもしれません。本日は「スポーツが変える。未来を創る。」という演題でお話ししますが、来年オリンピック・パラリンピックが開催されるということもあり、私の選手時代の話も少し触れていきたいと思います。2.水泳選手として(1)高校3年生でオリンピック初出場私は高校3年生の時と大学4年生の時の計2回オリンピックに出場させていただきました。私は千葉県の市立船橋高校出身です。私の在校時には体育の教員として陸上の小出監督ほか有名な指導者の方々が在籍され、活気のある学校でした。また、サッカーが強いことで有名ですが、水泳はそれほどでもなくて、私は学校の部活動よりもスイミングクラブで水泳をやっていました。1984年、高校3年生の時、私にとって最初のオリンピックとなったロサンゼルス大会に出場しました。ひとつ前のオリンピックは、日本が参加しなかったモスクワ大会だったこともあり、日本チームの中にオリンピック経験者が少なく、誰しもが実力を発揮できない状況でした。私も今で言うと準決勝ぐらいまでは進んだのですが、決勝に残ることはできませんでした。でもリレー種目ではみんなで力を合わせて決勝まで進んだことが良い思い出になっています。この大会が私のメジャー大会デビュー戦となりましたが、私はとても緊張して体調を崩し、大会期間中に3~4キロも痩せてしまいました。食欲が出ないのです。そのような状況の中、気力だけでなんとか自己ベストを記録することができましたが、オリンピックの怖さを実感しました。(2)1988年、ソウルオリンピックで金メダルロサンゼルスオリンピック終了後、私は腰痛で3か月ほど寝たきりの状態になりました。このときは、水泳ができなくなったら、推薦で入った大学も辞めなければいけないかな、などと悩みました。その後、腰痛も治り、ロサンゼルス大会の3年後、1987年に学生のオリンピックとも言われるユニバーシアードに出場して、優勝することができました。この頃は世界ランク3位くらいで、もう少しで1位になれる位置にいました。そしてユニバーシアードの翌年、1988年がソウルオリンピックです。このソウル大会の予選時にライバルである米国のバーコフ選手が世界記録を出しました。水泳は予選で上位8名を決めて決勝に進むので、上位8名の中に入っていれば次につながります。私はこのとき全力で泳いでいなかったものの、バーコフ選手が思いのほか速いので、「やばいな。ずいぶん離されたな。」と思いました。このあと私は決勝に向けてギアを上げていくわけですが、決勝戦の映像をご覧いただければ分かるように、勝負というのは金とか銀とかが一瞬で決まってしまうのです。当時は「自分の力で金メダルを獲得した」と思っていましたが、これは「金メダルをいただいた」と考える方がいいのではないか、「おまえに金平成31年2月4日(月)開催職員 トップセミナー鈴木 大地 氏(スポーツ庁長官)スポーツが変える。未来を創る。~スポーツの価値を高めるために~演題講師44 ファイナンス 2019 Apr.連載セミナー

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