ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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ヴェルヌの「ホテル・ノブール」(ママ)に大使館を移転*49。同地でHôtel-Nobleと呼ばれている建物は11, rue Aristide Briand, Vernou-sur-Brenneに存在。1940年6月16日 さらに戦火を避け、ボルドー近郊バルサックの「シヤトー・プレスト」(ママ)に大使館を移転*50。記録に残る地理的な描写はChâteau Prostと一致しており、建物は64, avenue Aristide Briand, Barsacに現存する*51。1940年6月30日 先発隊はオーヴェルニュ地方の温泉保養地ラ・ブールブルに移り澤田廉三大使はVilla Borghese(50/64 quai Jeanne d'Arc, La Bourboule)に、後発隊は7月3日にバルサックを出てラ・ブールブルの「ホテル・ツーリング」(129, rue de Belgique, La Bourboule、現在はHôtel Au Val Doréとして営業)に投宿*52。1940年7月6日 ヴィシー近郊キュセの「シャトー・ド・プレール」(Château de Presles、155, avenue de Vichy, Cusset)を大使館のために借入れ、移転*53。1940年8月24日 ヴィシー市内(2, quai d’Allier, Vichy)に大使館を移転*54。1941年6月10日 ドイツ外務省の求めに応じ、パリの大使館を閉鎖し、在パリ日本領事代表(Représentation consulaire du Japon à Paris)の名で2名の館員をパリに残存させることとした*55。1944年8月20日 ヴィシー政権崩壊に伴い、日本国大使館員ヴィシーを脱出(パリの日本国大使館・関係機関の建物の管理は在仏スイス公使館に委託)*56。8月23日ベルフォール着、続いて9月10日ドイツ・ジグマリンゲン着。1945年4月21日、三谷隆信大使一行ジグマリンゲン脱出、23日スイス入国、25日ベルン着。1945年11月17日 在仏スイス公使館が保護下に置いていた日本の不動産・動産をフランス外務省に引渡し*57。1946年1月23日 三谷大使一行ベルンを引き揚げ、帰国の途に就く(駐仏日本外交団のスイス引揚)。1950年12月15日*58 日本の外交権が停止されている中、フランス政府の承認を得て、パリに在外事務所(Agence du Gouvernement Japonais)を開設。場所は、現在はオルセー美術館となっているHôtel Palais d’Orsay(9, quai Anatole France)。1951年 フランス外務省が接収していた7, avenue Hocheの大使公邸が返還され、在外事務所を移転*59。1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効により7, avenue Hocheで大使館を再開。大使公邸と大使館事務所を兼ねており、手狭としてフランス外務省に24, rue Greuzeの返還を再三要望*60。*49) 外務省外交史料館「第二次歐洲戰爭関係一件/在留邦人保護避難及引揚関係 第一巻」の「巴里立退の前後1」7枚目。地理的描写は同地のHôtel-Nobleと統一するものの、木造との描写は実際(石造)と異なる。ちなみに、これ以降、1946年までの日本大使館一行の移動・逃避行については有利浩一郎著「75年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》」(ファイナンス2019年2月号)に詳しく書いたので参照されたい。*50) 外務省外交史料館「第二次歐洲戰爭関係一件/在留邦人保護避難及引揚関係 第一巻」の「巴里立退の前後2」2枚目。*51) 写真は現在の建物所有者のペロマ夫妻(Monsieur et Madame Antoine et Béatrice PERROMAT)に案内頂いたときのもの。また、御主人の御父上が醸造していたChâteau Prostの名を冠したワイン(ソーテルヌ)あり。なお、Château Prostの概要は次のフランス文化省のサイトで見られる。http://www2.culture.gouv.fr/documentation/memoire/HTML/IVR72/IA00067708/index.htm*52) 外務省外交史料館「第二次歐洲戰爭関係一件/在留邦人保護避難及引揚関係 第一巻」の「巴里立退の前後2」5枚目。*53) 同上6枚目。*54) ティエリ・ヴィルト著「首都ヴィシー道々案内 1940年から1944年」(《Guide rues par rues Vichy capital 1940-1944》par Thierry Wirth)。ただし、この番地の居住者は現在の建物は新しく建てられたものと言っていた。なお、41, quai d’Allierとの記録もあるが、その番地は存在しない。*55) 外務省外交史料館「在外帝国公館関係雑件(在満、支公館ヲ除ク)(旧華族会館樓門在米大使館へ移築ニ関スル件ヲ含ム)/閉鎖関係 第二巻」の「4.巴里大使館」。ドイツ外務省には当初総領事館の設置を打診したが新規設置を拒否され、曖昧なステイタスの領事代表という名称で同意を得ている。*56) 前掲小野吉郎著「パリ日本大使館と東京フランス大使館の歴史年表」では、「大使館の留守番の代理連絡事務はパリに残留した元三菱商事社員で旭ガラス駐在員だった森田菊次郎のフランス人の夫人(Geneviève MORITA , 3 rue Davioud)が委託され、自宅を仮連絡事務所とした。1950年の萩原徹パリ在外事務所長就任まで続いた」とある。*57) フランス外務省外交史料館資料「フランスにおける日本代表」(REPRESENTATION JAPONAISE EN FRANCE)E184-1中の1945年11月17日付在仏スイス公使館・フランス外務省の間の調書。この時引き渡された不動産は、在仏スイス公使館の管理下にあった大使館事務所(24, rue Greuze)・大使公邸(7, avenue Hoche)・海軍駐在武官事務所(5, avenue Ingres)・日本人会事務所(7, rue du Débarcadère)である。陸軍駐在武官事務所(1, boulevard Beauséjour)についても在仏スイス公使館の管理下にあったが、賃貸期限到来により内部にあった動産を7, avenue Hocheに移している。なお、海軍駐在武官事務所は11, square de l’Alboniにあったとの話があり、フランス外務省編「外交団構成員一覧(1940年1月1日)」(《Liste de MM. les membres du corps diplomatiques (1 janvier 1940)》 par le Ministère des Affaires étrangères)でも同じ住所が確認できるが、上記のavenue Ingresの物件との関係は不明。*58) フランス外務省外交史料館資料「フランスにおける日本代表」(REPRESENTATION JAPONAISE EN FRANCE)E184-1中の1951年1月16日付太田一郎外務事務次官から駐日フランス大使宛て書簡の写し。なお、開設日を12月16日としている文献もある。*59) 詳しい返還日は不明なるも、フランス外務省外交史料館資料「フランスにおける日本代表」(REPRESENTATION JAPONAISE EN FRANCE)E184-1中の1951年2月末頃のものと思われる日本政府在外事務所宛のフランス外務省の書簡には1951年第2四半期中に同在外事務所へ返還する意図が示されている。また、同上E184-1中1951年11月8日付アジア・オセアニア局書簡においては、在外事務所の場所が7, avenue Hocheと示され、遅くともこの日までには同在外事務所が移転済だったことが裏付けられる。*60) 同上E184-1中1952年4月3日付アジア・オセアニア局メモには、萩原在外事務所長が24, rue Greuzeの建物の返還を要望していると記され、続いて同上E184-1中5月8日付在仏日本国大使館からフランス務省宛書簡で返還要求が行われている。同上E184-1中12月23日付在仏日本国大使館からフランス外務省宛書簡ではフランス外務省から在仏日本国大使館に宛てた7月10日付メモが同建物を12月1日に返還するとしていたのに対し実際には返還されていないため督促を行う内容になっており、さらに12月25日付のフランス外務省内のメモでは同日朝、日本国大使が直接要求しに来たと記されている。現在も残るシャトー・プロスト ファイナンス 2019 Mar.45日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(10・最終回) SPOT

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