ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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ウ)の夫人Zoa Urusowとの間で結び(5月7日)、この日から居住*32。徳川昭武はフランスに1868年10月まで滞在。1870年5月6日 伯爵シャルル・ド・モンブランの日本総領事の立場をフランス外務省が認める。総領事館の住所は、同氏の自宅8, rue de Tivoli(現在の8, rue d'Athènes)*33。前年12月に任命された公務弁理職はフランス外務省に認められず同年11月21日付で日本政府が解任。モンブランの総領事職の扱いがどうなったかは定かでないが、1873年、1876年の全国年鑑には現れないものの、1879年、1880年、1881年の全国年鑑ではモンブランはパリ総領事とされている*34。〔公使館・大使館〕1871年7月又は8月頃*35 常駐外交官*36として初めて派遣された鮫島尚信代理公使が、26, rue de la Reine Hortense*37に代理公使館を開設。この通りはavenue Hocheの1879年までの旧称であり、偶然にも、同じ通りにある現在の大使館と極めて近い場所から在仏日本国大使館の歴史が始まったことになる*38。1872年6月19日 鮫島の昇任に伴い弁理公使館となる。1873年11月22日 鮫島の昇任に伴い公使館となる。1874年9月8日 公使館を75, rue Josephineに移転。リール市の市議会議員ソワン・ダルガンビとの間で7月10日に賃貸契約を結んだとされる*39。1879年8月16日 街路名称変更により公使館の住所が75, avenue Marceauとなる*40。1906年1月29日 大使館となる*41。1906年8月16日*42 Vion-Whitcomb夫人より購入*43した7, avenue Hocheに大使館を移転。1919年12月初め頃*44 大使館事務所を9, rue La Pérouseに移転*45。7, avenue Hocheは大使公邸のまま使用。1925年10月15日*46 大使館事務所を24, rue Greuzeに移転(1927年に日本政府所有となる*47)。9, rue La Pérouseは領事事務のためにその後も使用か*48。1940年6月11日 ドイツのフランス侵攻を避け、邦人保護のための担当館員をパリに残しつつ、トゥール近郊*32) 外務省外交史料館「続通信全覧 徳川民部大輔欧行一件 付仏国博覧会 六」。なお、前掲小野吉郎著「パリ日本大使館と東京フランス大使館の歴史年表」によれば向山一履は37 rue Galiléeに、随員は30 rue Chalgrinに落ち着いたとある。ちなみに、この向山一履は「外国シヤルゼダフヘール(代理公使)相当の任」を与えられており、また向山の帰国後は栗本鯤が任務を引き継いでいるが、両名ともフランス政府に信任状を提出しておらず、*36にある通り、フランス政府に認められた代理公使は鮫島尚信が最初である。*33) 商工業司法行政年鑑1871-1872年版(《Annuaire-almanach du commerce, de l'industrie, de la magistrature et de l'administration》 1871-1872)1785頁。*34) 全国年鑑1879年版(《Almanach national》 1879)121頁、全国年鑑1880版(《Almanach national》 1880)52頁、全国年鑑1881年版(《Almanach national》 1881)52頁。*35) 鮫島文書研究会「鮫島尚信在欧外交書簡録」568頁は「鮫島がラ・レーヌ・オルタンス街26番地の建物に公館事務所を開いたのは、恐らく8月になってからであろう」とする。一方で、渡正元著「漫遊日誌」第三輯(田中隆二校訂、齋藤義朗翻刻、平成12年3月、広島市立大学)6頁以降では、ロンドン、ベルリンを経て1870年6月29日夕方にパリに到着した鮫島を渡がその後しばしば訪問しているが、6月30日、7月6日、7月7日は「旅宿」を訪問とするのに対し、7月17日以降は「鮫島の宅」と表現されることが多くなる。ここから考えると、それまでに代理公使館が開かれたのではないかという御示唆を日本銀行横堀裕二パリ事務所長の御父上の横堀惠一氏から頂いた。*36) フランス外務省編「外交団構成員一覧(1872年3月7日)」(《Liste de MM. les membres du corps diplomatiques (7 mars 1872)》 par le Ministère des Affaires étrangères)10頁。日本の外交官として初めての掲載である。*37) ラ・レヌ・オルタンスは、「オルタンス王妃」という意味であるが、これは、ナポレオン一世の弟でオランダ国王のルイ・ボナパルトの王妃であったオルタンス・ド・ボアルネのことである。ちなみに、その息子が皇帝ナポレオン三世である。*38) http://opendata.apur.orgのデータベースEMPRISE BATIE PARISによると、現建物は1851年から1914年の間の建築ということまでは分かるが1871年に既に存在していたかは不明。*39) 鮫島文書研究会「鮫島尚信在欧外交書簡録」576頁。*40) http://opendata.apur.orgのデータベースEMPRISE BATIE PARISによると、現建物は1907年築とされる。*41) 外務省外交史料館「欧米大国ト特命全権大使交換一件 第一巻」6枚目。*42) 1906年8月15日付ル=タン紙5頁( 《Le Temps》 du 15 août 1906)に「明日から日本帝国大使館はオシュ通り7番地に移転」との記事あり。*43) アニ・ブリエール著「外交に関するアングルのバイオリン(III)」230頁の「日本国大使と萩原徹」。(《Violons d'Ingres de la diplomatie (III):L'ambassade du Japon et M. Toru Haguiwara》 par Annie Brierre, La Nouvelle Revue des deux Mondes)。*44) 1919年12月3日付ラ=クロワ紙2頁( 《La Croix》 du 3 décembre 1919)に日付は示されてはいないものの「日本大使館及び講和会議日本全権団の事務所はパリ16区ラ=ペルズ通り9番地に移転」との記事があり、同日又はその前後に移転したものと思われる。通りの名前は、偶然にもヨーロッパ人として初めて宗谷海峡を発見し、同海峡の英語名(La Perouse Strait)・仏語名(détroit de La Pérouse)にもなっているペルーズ伯ジャン=フランソワ・ガロにちなんでいる。なお、講和会議日本全権団とは第一次世界大戦のパリ講和会議に参加した日本全権団のことであり、牧野伸顕次席全権大使以下は1919年1月18日にパリに到着し、3-5 place VendômeにあったHôtel Bristol(現在あるオテル・ブリストルとは異なる)全体を借り切って事務所としていた(外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年」上712頁及び737頁)。*45) http://opendata.apur.orgのデータベースEMPRISE BATIE PARISによると、当時の建物は現存せず現在ある建物は1950年築のもの。*46) 1925年10月12日付ル=ジュルナル紙2頁( 《Le Journal》 du 12 octobre 1925)に「日本国大使館は弊紙に対し10月15日よりその事務所がパリ(16区)グルズ通り24番地に移転するとの紙面告知を依頼」との記事あり。また、石黒敬章・田中敦子・和田博文編「ライブラリー・日本人のフランス体験第1巻 パリの日本語新聞-『巴里週報』I」61頁の巴里週報第十号(一)大正十四年十月十七日に「大使館移転 去る十五日から24 Rue Grenze(ママ)Paris(16e) 」との記事あり。なお、http://opendata.apur.orgのデータベースEMPRISE BATIE PARISによると、現建物は1900年築で、過去大使館事務所として使用していたものと同じ。*47) 前掲小野吉郎著「パリ日本大使館と東京フランス大使館の歴史年表」。*48) 国立印刷局「フランス共和国外交官・領事年鑑」( 《Annuaire diplomatique et consulaire de la République française》 par Imprimerie nationale)では、1921年版以降パリの領事職の存在が確認でき、1922年版からはその住所が9, rue La Pérouseとされ、1940年版までこの住所が使われている。44 ファイナンス 2019 Mar.SPOT

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