ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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さらに、勅許を得られずとも行った条約調印やその後の欧米四ヶ国からの様々な要求への対応からは、幕府が攘夷運動との板挟みに遭いつつも、統治者としての責任感から戦争回避を第一として欧米との交渉に当たったことや、攘夷運動の鎮圧のため、申し出があったにも関わらず彼らの武力を借りることを幕府が潔しとしなかったことが分かる。清や阮朝ベトナムのたどった道を見れば、幕府のこうした態度はもっと評価されてよいと思われる。ともあれ、日仏条約により、貿易の自由化を通じて、例えば、(日本側は消極的ではあったものの)生糸・蚕卵の輸出を通じて蚕病で大きな被害を受けたリヨンの絹織物産業が支えられたり、日本の美術工芸品の輸出を通じてフランスにおけるジャポニスムの興隆がもたらされたり、さらにその後徐々に増えていく両国間の人の往来を通じて両国の相互理解が進み、一時的には不幸な時期があったにせよ、両国の良好な関係が築かれる嚆矢となったりしたのである。もちろん、条約の不平等性を無くさなければならないという大きな課題が生じたのは事実であるが、1858年の時点で日仏条約を含む安政5ヵ国条約の締結という決断を行った幕府には大いなる先見の明があったと思う。最後に、今回の執筆に当たっては本当に様々な人に*30) 唯一詳しく調べてある記事は、日仏会館編「日仏文化」第64号(1999年3月)76頁の小野吉郎著「パリ日本大使館と東京フランス大使館の歴史年表」である。今回の年表はこれも参考にしつつ、新たに発見した情報を色々と盛り込んでいる。*31) フリュリ=エラールの住所は商工業司法行政年鑑1870年版(《Annuaire-almanach du commerce, de l'industrie, de la magistrature et de l'administration》 1870)1688頁で確認できる。ご協力いただいた。特に、フランス外務省の外交史料館のイザベル・ナタン文書局公開部長(Madame Isabelle NATHAN)、及びマリ=パスカル・クルムノフ氏(Madame Marie-Pascale KRUMNOW)、ナポレオン治世記念物保存協会(ACMN)イヴリヌ県代表委員のアラン・アンデルセン氏(Monsieur Alain ANDERSEN)、「明治と共和国」(République & Meiji)のダニエル・タバール氏(Monsieur Daniel TABART)、バルサック村シャトー・プロストの所有者ペロマ夫妻(Monsieur et Madame Antoine et Béatrice PERROMAT)、日仏会館図書室清水裕子氏、カジマヨーロッパの山本かおる氏、外務省外交史料館佐久間健氏、外務省欧州局西欧課西田雄一郎氏及び妹尾裕司氏並びに大臣官房国内広報室の皆様、財務省大臣官房文書課広報室北山貴子氏及び元広報室溜渕孝浩氏、在仏日本国大使館赤堀雅人書記官、マリズ・ヴィラール職員(Madame Maryse VILLARD)及びアンヌ・ケルヴラン職員(Madame Anne KERVRAN)、そして最後まで執筆に御理解を頂いた木寺昌人駐仏日本国大使には心から感謝の意を表したい。(注) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。なお、文中の日付は旧暦は用いず、すべて太陽暦を用いています。(お詫び) 2月号掲載分のうち、39頁左段6行目「第7条・第19条とも和文は蘭文と同内容を規定であるため」とあるのは「第7条・第19条とも和文は蘭文と同内容であるため」の、39頁左段11行目「日英条約の蘭文に照らすと日仏条約の蘭文が誤りでが」とあるのは「日英条約の蘭文に照らすと日仏条約の蘭文が誤りで」の誤りでした。お詫びの上訂正します。(コラム)在仏日本公使館・大使館の変遷日仏条約第2条により、日本は、フランスに常駐外交官等を置くことが可能になったが、公使館や大使館の所在地や移動時期については意外と文書が少ない*30。そこで、今回、手を尽くして調査してみたところ、かなりの部分が判明したので、ここに年表の形で整理する。年  表(住所は断りがない限りパリ)〔総領事館・使節団宿舎〕1866年3月5日 将軍徳川家茂が銀行家ポール・フリュリ=エラールを日本総領事に任命。住所は372, rue Saint-Honoré*31。なお、父ジャン=バティストはペルシャ総領事を引き受け、同じ住所を総領事館としていた。1867年6月13日 パリ万国博覧会使節団を率いる徳川昭武の住居用として53 rue Pergolèseと50 avenue de l’Impératriceの角地の邸宅の賃貸契約をポーランド系ロシア貴族のLeon Hieronim Radziwiłł(ラジウィ ファイナンス 2019 Mar.43日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(10・最終回) SPOT

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