ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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ではなく同輩に当たるのである、(この議定書が)その証拠である」といった記事が掲載されるなど*20、この議定書を巡り、モンブランの影響で多数の新聞に日本が連邦的な国家であって将軍は数ある大名の一つに過ぎないといった記事が出たようである。モンブランは8月28日、薩摩藩の岩下とともにマルセイユを出港して10月19日に長崎に到着、その後薩摩に向かう。ただ、この直前、8月9日に、後に駐フランス公使となる鮫島尚信や後に駐イギリス公使となる森有礼など薩摩藩の当時の欧州留学組が大久保市蔵(後の利通)らに宛てて、家老の岩下がモンブランを雇い薩摩に同伴帰朝するのを非難し、警戒するよう建言する書簡を送っている*21。*20) 19世紀百科事典事務局編「百科年鑑」1867年版997~998頁(《Annuaire encyclopédique》 en 1867 par le bureau de l'Encyclopédie du XIXe siècle)。この百科年鑑では日本の項をモンブランが執筆しているため、極めて薩摩藩寄りの記事となっている。なお、宮川孝著「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」は大変詳しくモンブラン伯の経歴を追っており、その28頁では「ル=フィガロ」「デバ」「ル=タン」「ル=プティ=ジュルナル」の各紙にも同様な記事が出たとしている。筆者の調べたところでも1867年4月26日付「ル=フィガロ」紙、同日付「ラ=リベルテ」紙にそのような記事が出ている。*21) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 慶應三年自七月九日ノ二至同月十一日」番号91慶明雜錄。*22) 復古記巻二十一603頁。*23) 前掲宮川孝著「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」32頁。*24) 外務省藏版「大日本外交文書」第一巻第一冊345頁。*25) 前掲外務省藏版「大日本外交文書」第二巻第三冊307頁。*26) 前掲外務省藏版「大日本外交文書」第一巻第一冊855頁。(3)その後日本では、1862年のロンドン覚書・パリ覚書で延期された江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港時期である1868年1月1日が迫っていた。兵庫の開港はイギリス・フランス・アメリカの艦隊が見守る中、同日に行われ、大坂の開市も同日にやはり実施された。しかし、1月3日には王政復古の大号令が発され、28日には鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まる。2月9日には新政府側の外国事務総裁嘉彰親王が各国公使に書簡を送り旧幕府締結の条約を遵守することを宣言する*22。5月3日には江戸城が無血開城されるが、戊辰戦争はジュル・ブリュネをはじめとするフランス軍事顧問団の一部も旧幕府側に加わった箱館戦争の翌1869年6月27日の終結まで続くことになる。条約との関係では、江戸の開市と新潟の開港がロンドン覚書・パリ覚書の定めから1年後の1869年1月1日に実施された。江戸は既に前年の1868年9月3日に東京に改称されていた。薩摩にいたモンブランは、新政府の発足とともに京都に移ったようであり、特に1868年2月4日の神戸事件(備前藩士が三宮で外国兵に発砲)、2月8日の堺事件(土佐藩士がフランス軍艦乗組員を殺傷)の収拾に当たり新政府に助言を行ったようである*23。こうした貢献に報いるため、新政府外国事務総督の伊達宗城は幕府が任命したフリュリ=エラールを解任してモンブランを在仏日本総領事として任命することを3月3日にロシュ公使に通知する*24。ただし、フリュリ=エラールには解任通知が届いておらず1869年12月12日に澤宣嘉外務卿からロシュの後任のマクシミリアン・ウトレイ公使に対し解任通知を届けるよう書簡で依頼している*25。また、モンブランは同年7月21日に外国官知事の伊達宗城と面会した時に総領事職では国事(政務)を裁けないとして代理公使(Chargé d’aaire)の役職を希望しており*26、澤外務卿は10月21日付でモンブランの代理公使としての派遣をウトパリ万博を巡る幕府と薩摩藩の議定書(写し)の後半部分 (フランス外務省外交史料館蔵) ファイナンス 2019 Mar.41日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(10・最終回) SPOT

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