ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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フリュリ=エラール氏に与えた職務名を彼が名乗ることは自分限りでは異存はないと返信しており*14、これを踏まえ、1866年3月5日、将軍徳川家茂からフリュリ=エラールに対する任命書が発出され、日本人がフランスに渡航した時に船の遭難・漂流時の取扱いや製鉄器械の新開発、大小砲の新発明、武器器械の調達、陸海軍伝習等に関する用向きをパリにて引き受け取りはからうよう、当分、およそ領事官の心得をもって取り扱われることを知らせ*15、同日付書簡で老中の水野らよりロシュに対しドルアン=ド=リュイス外務大臣に通知するよう依頼している*16。これが、日本政府による初めての在パリ総領事の任命である。なお、ロシュは、このほかにも横浜仏語伝習所の設立、1867年のパリ万国博覧会への幕府の参加推薦、フランス軍事顧問団の招聘と幕府軍の訓練といった形で幕府との間で深い関係を築いていく。(2)1867年パリ万博と幕府、薩摩藩1867年のパリ万国博覧会について、ロシュは1865年8月15日に幕府に参加を勧告、8月22日に幕府はロシュに参加する旨の返事を行っている。そして1867年2月15日、将軍徳川慶喜の弟で13歳の徳川昭武が万国博覧会の使節団を率いてパリに向けて出発、4月3日マルセイユに到着、11日にパリに到着し、28日にナポレオン三世に謁見している。一方で、薩摩藩は、1865年に密航留学生を送った際、ベルギーの男爵でフランスの伯爵でもあるシャルル・ド=モンブランと接触し、1867年のパリ万国博覧会への出展も見据えた上で商社設立に合意している。その後、薩摩藩は家老の岩下方平を団長としてパリ万国博覧会に使節団を送る。幕府側より一足早く1867年2月初めにパリに到着し*18、モンブランとともに出展準備を進めるが、薩摩藩が琉球国王の名で独立*14) 同上番号156書翰リウイー柴田剛中。*15) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 慶應二年自正月十八日至正月十九日」番号82将軍直書佛人ヘラルト宛。*16) 同上番号83水野忠精等書翰佛公使ロセス宛。*17) フリュリ家の墓であり、ポール・フリュリ=エラールもここに埋葬されている。場所は、パリの南郊ビュール=シュール=イヴェット(Bures-sur-Yvette)のRue des Trèesの突当りの共同墓地である。*18) フランス外務省外交史料館所蔵資料40ADP1(Japon Affaires Diverses 1862-1868)中に1867年2月9日付の岩下方平の外務大臣への面会申込みの毛筆の書簡が残っており、「主君琉球國王の命に依て」という記述もなされている。なお、以下に写真掲載する「パリ万博を巡る幕府と薩摩藩の議定書(写し)」も同じ資料の中に残っている。*19) なお、幕府の参加要請に応じて佐賀藩もパリ万国博覧会に肥前太守政府を名乗って出展しており、使節団長は佐野常民であった。また、この佐賀藩の出展の際に佐賀の商人としてパリまで派遣された野中元右衛門がパリ到着当日の1867年6月14日に死去、その墓がペール=ラ=シェズ墓地に建てられており、2017年6月17日には没後150年の慰霊祭が同墓地にて開かれた。国であるかのような出展を行おうとしているのを、到着した幕府側が見つけて驚き、外国奉行の向山一履及び支配組頭の田辺太一はこれに抗議、4月24日、パリにて幕府側の田辺と薩摩藩代理人のモンブランとの間で議定書が作成され、「Japon」の名の下、共通の旗としていずれも日の丸を掲げるも、幕府側は大君政府を名乗って葵の御紋を掲げ、薩摩藩側は琉球国王とは名乗らないが薩摩太守政府と名乗って丸十字の紋を掲げることで合意を見る*19。しかしながら、例えば4月25日の「ラ=フランス」紙では「大君は日本全体の皇帝ではなく、薩摩太守及び他の16(ママ)の国主と同じ単なる一大名である。一言で言えば大君は独立した君主であり自身の領国の中では主権を有するが数ある大名に対する権威はなく、優位に立っているのポール・フリュリ=エラールの墓*1740 ファイナンス 2019 Mar.SPOT

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