る」と返答している*8。そして10月22日、四ヶ国公使は若年寄酒井飛騨守忠毗との間で、違反を犯した大名を罰するのは幕府の責任であるので賠償は幕府が引き受けるべきという理屈で、四ヶ国に計300万ドルの賠償金を3か月ごとに50万ドルずつ6回に分けて支払うこと、賠償金支払の代わりに将軍が下関又は瀬戸内海の港を開きたいと申し出た場合各国政府はそれを承諾するか引き続き賠償を求めるかを選択できること等を合意するのである*9。ただし、幕府は結局国情が許さないとして、1865年4月5日に下関又は瀬戸内海の港の開港は出来ないことを四ヶ国公使に告げ、巨額の賠償金の支払に着手することになるのである。その後、オールコックに代わってイギリス公使となったハリー・パークスは、将軍徳川家茂が大坂に居るのを好機として、11月1日、フランスのロシュ、アメリカの新公使アントン・ポートマン、オランダのポルスブルックとともに軍艦9隻で横浜を出航し、11月4日に兵庫沖に至り、幕府に対し未だ勅許が得られていない各国との修好通商条約の勅許と兵庫の早期開港を求め、勅許が得られないなら自ら直接京都に赴いて朝廷と交渉すると告げる。11月21日には、幕府に対し、下関戦争賠償金の3分の2を放棄する代わりに条約の勅許、兵庫開港の早期実施、関税率引下げを要求し、これに対し、11月24日、幕府から、朝廷は条約を勅許したが兵庫開港は不許可となったこと、下関戦争賠償金は全額を支払うこと、関税率引下げについては江戸で交渉することの3点の返答がなされる。その後の関税率引下げの交渉では、イギリスを中心に、清との間で結ばれた条約の税率を参考とするよう要求がなされており、最終的に1866年6月25日に「改税約書」の形で老中の水野和泉守忠精と4ヶ国の公使との間で調印がなされ、それまでの各国との修好通商条約で定めていた税率を新たな税率で置き換えることになった。特に、元々、価格の20%や35%の高*8) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自八月十八日ノ二至八月十九日ノ一」番号82毛利敬親勤王事績。*9) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自九月二十二日ノ二」番号2舊幕下ノ関償金書類抜萃、英文は同番号11下関覺書。なお、なぜ幕府が長州藩の払うべき多額の賠償金をいとも簡単に肩代わりしたかであるが、同データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自九月六日ノ一」41下ノ関外國船砲撃事件によれば、10月6日の老中の水野和泉守忠精、牧野備前守忠恭、諏訪因幡守忠誠と四ヶ国公使との交渉で、幕府側から、長州征伐を近く行うので毛利家が領地没収となれば幕府が賠償金を引き受けざるを得ず、また同家が降伏すれば同家から賠償金を差出させるとして、幕府が引き受けて良いと答えており、この時点では長州征伐により幕府が長州藩を滅ぼすことを前提としていたからのようである。*10) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自十一月十日ノ二至十一日ノ二」番号64目付栗本鯤書翰勘定奉行小栗忠順宛。*11) 同上番号67老中書翰佛國ロッシュ宛。*12) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 慶應元年自正月二十八日至正月二十九日」番号79横須賀製鐵所一件約定書。*13) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 慶應元年自八月十八日至八月二十四日」番号151續通信全覧。率関税も存在していたところ、税率を当時の従価税換算で5%となるように大幅に引下げ、かつ、多くの物品について関税率を価格ではなく量に応じて定める従量税とすることになり、日本にとっては極めて大きな減税を受け入れる結果となった。▪10 幕府・薩摩藩とフランス、そしてその後(1)幕府とフランスの接近、駐仏領事の任命1864年4月27日、デュシェヌ=ド=ベルクールに代わって江戸に駐日フランス公使として着任したロシュは、12月1日、勘定奉行小栗上野介忠順から造船所・製鉄所建設の斡旋について相談を受け*10、続いて、12月8日、老中の水野和泉守忠精、阿部豊後守正外、諏訪因幡守忠誠の3名から書簡にて正式に斡旋依頼を受ける*11。そして1865年2月24日幕府との間で正式に横須賀への製鉄所・修船所・造船所等の建設の約定書を取り交し、フランス人レオンス・ヴェルニがその建設に当たるのである*12。ここには横須賀湾が地中海岸トゥーロン湾に似ていることからトゥーロン湾で建設されたものに倣って建設する、と書かれており、横須賀がトゥーロン軍港をモデルにしたことが分かる。この後、幕府は、1865年に外国奉行柴田日向守剛中をフランスに派遣、柴田は8月26日にマルセイユに到着後、フランスに一時帰国していたヴェルニの案内を得て29日にトゥーロン軍港に行き製鉄所・修船所・造船所等を視察、9月6日にパリに到着している。そしてロシュ公使から紹介を受けた銀行家のポール・フリュリ=エラールと会い、日本国の事務を取り扱うよう依頼した上、10月12日付書簡においてドルアン=ド=リュイス外務大臣に対し外国コンシユルゼネラール(総領事)の例をもって相当の待遇をお願いしたいと依頼している*13。これに対し同外務大臣は、10月21日付書簡において日本のロシュ公使を通じて手続をしてほしいが日仏の友好関係に鑑み日本が ファイナンス 2019 Mar.39日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(10・最終回) SPOT
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