ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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たパリ約定が、6月20日、池田、河津、河田とドルアン=ド=リュイスとの間で締結される。また、6月1日、使節団からドルアン=ド=リュイス外務大臣に対し、前年に殺害されたカミュ少尉の遺族宛てに、3万5千ドル(19万2千5百フラン)の扶助金が渡されている。しかし、結局、使節団は本来の交渉目的だった横浜鎖港を全く認めさせられなかったため、江戸に戻った池田は領地の半分を召上げの上蟄居、河津は免職の上蟄居の処分を受ける。そして、8月25日、幕府はこのパリ約定の破棄を各国に通知するのである。ここで、前年の堺町御門の変で朝廷から追放された長州藩であるが、8月20日 、長州藩の罪の回復を孝明天皇に訴えるべく京都御所を襲撃し、禁門の変を起こすものの、幕府側に敗北して長州藩は朝敵となる。こうした中、下関海峡の通航が妨げられていることに対して、8月末にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国艦隊が横浜を出航し、9月5日以降下関の砲台を攻撃・占領して破壊し長州藩は惨敗(第二次下関戦争)、8日に和議交渉を開始し、長州藩は下関海峡の通航の自由を確保すること、下関砲台の大砲の各国による接収を認めることに合意し、10日に再び交渉、14日に下関海峡の通航の自由の確保、石炭食料薪水等の給付、風波の難を避ける場合の下関上陸許可、下関海峡の砲台建築・大砲設置の禁止、賠償金は江戸で四ヶ国の公使が決定との5点からなる講和が成立する*6。なお、フランスが接収した青銅製大砲は2門がパリの廃兵院(レ=ザンヴァリド)に展示されていたがうち1門は貸与の形で下関市立長府博物館に里帰りしている。もう1門は引き続きパリの廃兵院に展示されているが、そこには、毛利家の家紋と「十八封度砲(18ポンド砲)」「嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾別墅鋳之(1854年春、江戸葛飾別所にて鋳造)」の文字が刻まれ、現在の江東区の南砂団地の辺りにあった長州藩の大砲鋳造所で鋳造されたものであることが分かる。*6) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自八月十三日ノ二至八月十四日ノ一」番号105毛利敬親一代編年史。*7) 前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自九月二十二日ノ二」番号31下ノ關償金事件。なお、ここには、アメリカのプルインとイギリスのオールコックが200万ドルの賠償金請求で合意していたところ、フランスのロシュがさらに強迫を行うべきと主張して請求額が300万ドルに引き上げられたとある。(3) 下関戦争賠償金、兵庫開港要求事件と 改税約書による関税率引下げさて、四ヶ国艦隊と長州藩との間で「江戸で四ヶ国の公使が決定する」とされた賠償金の問題である。イギリスのオールコック、フランスのロシュ、アメリカのロバート・プルイン、オランダのポルスブルックの4人の公使は、この賠償金を長州藩ではなく幕府に請求するのであるが、多額の賠償金を要求することで幕府が払いきれずに他の港の開港の要求に応じざるを得なくなるよう仕向けようとの作戦で、幕府に300万ドルの賠償金支払を求めることを決めたようである*7。長州藩は、賠償金は四ヶ国の公使が決定するということが気になって、横浜に井原親章、杉徳輔(孫七郎)、山縣半蔵(宍戸璣)及び伊藤春輔(博文)を送り、9月19日に四ヶ国公使と会談するが、公使達が「幕府に談判することになった」と告げたため長州藩一行は大いに安心し、また、公使達から下関開港の話が出るも一行は「朝廷・幕府の命があればいつでも開港すパリ廃兵院展示の長州藩の大砲 38 ファイナンス 2019 Mar.SPOT

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