ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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撃事件の解決に加え、横浜鎖港の問題を議論するため、2回目となる遣欧使節団の派遣を決め、12月5日、若年寄の田沼意尊と立花種恭らがデュシェヌ=ド=ベルクールを横浜に訪ね、その考えを説明する。そして、使節団は、外国奉行で26歳の池田筑後守長発を正使として、1864年2月6日にフランス海軍コルベット艦ル・モンジュに乗って横浜を発つのである。また同年1月26日には、8(3)で述べた第1回遣欧使節団とフランス政府の1862年パリ覚書における「酒及びフランス産品の関税の減税方法につき在日フランス公使と取り決める」との合意に基づき、同使節団の全権であった竹内下野守保徳及び副使であった松平石見守康英がデュシェヌ=ド=ベルクールを訪ね、税率を、酒・蒸留酒は5%に、時計・鎖も5%に、一定のパリ産品は6%とする大幅な減税で合意している。横浜鎖港の問題については、長州藩排除後の朝廷が有力大名の上洛を命じ、1864年2月7日に参預会議が形成され議論がなされた。当初、一橋家当主徳川慶喜、越前藩前藩主松平慶永、土佐藩前藩主山内豊信、宇和島藩前藩主伊達宗城、会津藩主松平容保が参預に任命され、2月20日に薩摩藩主の父島津久光も任命されたが、徳川慶喜を除く参預達は攘夷は不可能として鎖港に反対する一方、攘夷に反対していた幕府の側の徳川慶喜の方が、攘夷を主張する孝明天皇との関係を気にしつつ、開国を主張する島津久光の勢力拡大を警戒して横浜鎖港を主張する展開となり、結局4月には参預会議は消滅してしまうのである。その一方で、第2次遣欧使節団は、エジプトのピラミッドやスフィンクスも見た上で、4月15日にマルセイユに到着、4月20日にはマルセイユを発って翌日パリに到着する。一行は、1862年6月30日に完成した大型高級ホテルのル=グラン=トテル(現在のインターコンチネンタル=ル=グラン)に宿泊、4月23日にはドルアン=ド=リュイス外務大臣と大臣公邸で会談し続いてル=グラン=トテルでも歓談*4、5月3日に皇帝ナポレオン三世に謁見、5月7日にドルアン=ド=リュイス外務大臣と再び会談し交渉に入るのであ*4) このときは横浜鎖港の交渉には入っていない。なお、ドルアン=ド=リュイス外務大臣は病気でパリに来られずマルセイユに残った随員の横山敬一を気遣う発言をしている(前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自三月二十日」番号39池田筑後守外佛國行御用留及び番号44池田筑後守外佛國行御用留)。結局、横山はマルセイユにて4月26日死去しており、近世で記録に残る初めてのフランスでの日本人の死者であろう(前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 元治元年自三月廿一日至同月廿二日」番号77遣外使節池田長發外一名書翰幕府宛に(旧暦三月)「廿一日到病死」との記述あり)。ちなみに、彼の墓はマルセイユのサンピエール墓地に現存しているとのことであるが筆者はまだ訪問できていない。*5) フランス側は、1862年に行ったメキシコ出兵(この会談の時点ではフランスの勝利が継続していた)の例も持ち出している。る。使節団と同外務大臣の会合は、この後も5月11日、5月17日、5月28日と持たれるが、日本側は横浜鎖港について持ち出したのに対し、同外務大臣は、横浜鎖港などもってのほかで、そもそも外国人殺傷や外国船砲撃により1862年のパリ覚書で兵庫・新潟の開港と江戸・大坂の開市の延期の代償として取り決めた事項を日本は守っておらず本来は開港開市の延期も取り消されるべき、ただし現在開港している横浜・長崎・箱館の三港を「自由港」(定められた港湾区域内にいる限り輸入貨物に関税を課さない)とするのであれば開港開市の延期を引き続き認めて良いと主張する。日本側は自由港について国内取引に支障を来し、財政収入の減少も招くと主張するも、フランスとしてはこの提案を拒絶するなら日仏条約の厳格かつ完全な実施を無理にでも求めざるを得ないとも主張している*5。日本側は本件の判断権限を有さないので日本に帰ったのちこの要求を将軍に示すと答えるが、フランス側はこうした拒絶は外国との間で戦争を引き起こすだけでなく、内戦すら引き起こしかねないと言い、自由港を認めればいくつかの大名の反対のリスクがあるにしても外国との戦争は避けられ、かつ、フランスの支援を受けることができることにもつながると説く。5月28日の会合でも上記の主張がフランス側からなされたが、日本側が秘密会合を要求し正使の池田、副使の河津伊豆守祐邦、目付の河田相模守熙、通訳、フランス側がドルアン=ド=リュイス外務大臣ともう一名のみで話し合いを続け、フランス側は自由港の主張を諦める一方で、(ア)前年の長州藩による下関でのフランス軍艦砲撃について、長州藩主と将軍の両方が責任を負うべきであり、将軍が10万ドルを、長州藩主が4万ドルを賠償として支払うべきであること、(イ)下関海峡の通航の自由を幕府の助力を得てフランス自らが確保すること等を主張し、(ア)については日本側がこれらを認め、(イ)については3ヶ月経っても通航の自由が確保できないときはフランス及び他の国が幕府と力を合わせて通航の自由を確保することで日本は合意し、これらに加えて関税率引下げも記し ファイナンス 2019 Mar.37日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(10・最終回) SPOT

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