ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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しかし、デュシェヌ=ド=ベルクールの本国宛の書簡を見ると、これは、幕府が、イギリスからは武力をもって賠償金支払を迫られる一方、朝廷や一部の諸大名からは攘夷の実行を迫られ賠償金支払などもっての他という状況の中で、小笠原が一計を案じたということのようなのである。つまり、賠償金を払ってイギリスとの戦争を回避し、一方で、諸港の閉鎖と外国人退去を欧米各国に宣言して朝廷や一部の諸大名に対し攘夷の実行に着手したと言えるようにし、実際には、欧米各国に厳しい反論を書くよう頼み、それをもって攘夷派の気勢を削ごうという戦略だったのである。実際、各国公使は即座に条約違反であるとの強硬な反論書を幕府に送っている。デュシェヌ=ド=ベルクールも、「日本の役人が条約に反する告知をしようとも条約を順守すべきであり、前年の文久遣欧使節団との覚書通りに執り行うべきである」「貴殿から送られた荒くれた通知をフランスに送り文明の国々の歴史にも例のない条約破棄を元に戻しこのような企てを行おうとした者を罰する方法を実施させる」「横浜にいるジョレス提督に本件を伝え彼は日仏条約を破ろうとする者に対処するだろう」と小笠原に武力行使も辞さないとの返事をしているのである*3。小笠原は、その後、反幕府・攘夷派一掃のため、イギリスからの2隻の傭船を含む5隻の船で1千6百名の兵員を率い江戸を出発、7月15日、大坂に上陸している。そのまま京都に上る計画だったが、朝廷に足止めされ京都に残っていた徳川家茂は入京を認めず、この「クーデタ」は失敗に終わってしまうのである。さて、小笠原がイギリスに賠償金を払い、鎖港と外国人追放の書簡を各国公使に出した翌々日の6月26日、攘夷実行の期限が来たとして、長州藩がアメリカ商船ペンブローク号を砲撃、続いて7月8日にはフランス海軍通報艦キャンシャン号を砲撃、7月11日にはオランダ海軍メデューサ号も砲撃される。これに対し、7月16日にアメリカ海軍ワイオミング号が長州藩軍艦を撃沈、続いて7月20日にはフランス海軍セラスミス号とタンクレド号が下関の砲台を破壊するなどしたが(下関戦争)、長州藩は引き続き攘夷の構えをとり、下関海峡は通航不能な状態が続いた。*3) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 文久三年至五月十日ノ二」番号44佛国公使書翰小笠原圖書頭宛及び前掲アラン・コルナイユ著「最初の日仏条約」86頁。一方、イギリスは、薩摩藩に対し生麦事件の賠償金支払を直接求めることとして、7隻の艦隊を横浜から派遣し、8月11日に鹿児島湾に到着、交渉を持ちかけるも決裂し、8月15日、薩摩藩の汽船3隻を拿捕、これに対し薩摩藩側が砲撃を行って戦闘状態に入る(薩英戦争)。鹿児島城下は砲撃による火災焼失の被害が出たが、イギリス側にも大きな被害が出て、イギリス艦隊は8月17日、鹿児島を出て横浜に戻る。その後、11月に入り両者の交渉を経て、最終的に薩摩藩は2万5千ポンドの賠償支払を受け入れるも、幕府から借り入れて支払うこととし、しかも最終的にはこの借入れを返済しなかったため結局薩摩藩自らの懐は痛まない形での決着となった。また、イギリスは薩摩藩の求めに応じて軍艦購入の斡旋を承諾し、これ以降、イギリスと薩摩藩が接近していくことになる。外国人殺傷も引き続き発生する。10月14日、フランス陸軍アンリ・カミュ少尉が横浜から程ヶ谷(保土ヶ谷)宿に向かう途中で襲われ殺害されたのである。そして、フランス側は幕府に犯人逮捕と賠償金支払を求めるも解決しない状況が続くのである。(2) 横浜鎖港問題、第二次遣欧使節団と 第二次下関戦争長州藩は攘夷を幕府任せにせず孝明天皇自らが行うべきとの攘夷親征論を唱え、9月25日には攘夷親征につなげるための大和行幸の詔が孝明天皇の真意に沿わない形で出されるに至る。それまで天皇から上洛を求められていた薩摩藩は京都守護職の会津藩と合意し、また、他の攘夷各藩ももはや長州藩にはついていけないとして、9月30日、堺町御門の変を起こし、朝廷から長州藩を追放する。しかし、朝廷が攘夷論を撤回したわけではないため、幕府は、横浜・長崎・箱館の三港の閉鎖は難しくとも横浜の鎖港のみは実現して朝廷の意に沿おうとし、10月末、アメリカ・オランダ、引き続いてイギリス・フランスに対して横浜の外国貿易への閉鎖を申し入れる。当然、これら四ケ国は条約違反となる横浜鎖港は話にならないとして、幕府側との面会を断る展開となる。こうした中、幕府は、カミュ少尉殺害事件の賠償交渉、長州藩の下関砲36 ファイナンス 2019 Mar.SPOT

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