ファイナンス 2019年3月号 Vol.54 No.12
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎9攘夷運動、下関戦争と関税率引下げ(1) 度重なる外国人襲撃事件及び外国船砲撃事件さて、文久遣欧使節団がイギリスとの間でロンドン覚書を結びオランダに移った直後の1862年6月26日、江戸のイギリス公使館東禅寺の警備を行っていた松本藩士が、文久遣欧使節団とともにイギリスに赴いたオールコック公使に代わり代理公使として赴任したジョン・ニールを殺害しようとした第二次東禅寺事件が起きる。さらに、同使節団がロシアを去るべく、皇帝アレクサンドル二世に謁見したまさにその日の同年9月14日に、今度は、横浜に近い生麦村の東海道において、乗馬して川崎大師に向かっていたイギリス人4人が薩摩藩の大名行列に乗り入れたために薩摩藩士が抜刀し、イギリス人商人チャールズ・リチャードソンが殺害され、他2人が重傷を負う、いわゆる生麦事件が発生する。続いて、1863年1月31日には、品川御殿山に建設中だったイギリス新公使館が長州藩士に焼き討ちされ、開市開港延期交渉の妥結に重要な役割を果たしたイギリスが、立て続けに襲撃の対象となる。イギリスは、第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドに加え、4月6日、生麦事件について10万ポンドという桁違いの賠償金の4月26日までの支払を幕府に要求するも、幕府側は将軍徳川家茂が上洛中として度々期限延長を要求、その間に欧米の艦隊が江戸近海にやってきて圧力をかける。イギリスのニール代理公使に加え、フランス全権公使のデュシェヌ=ド=ベルクールもイギリスとの間で斡旋の労はとりつつもイギリスへの賠償に応じるべきと幕府に求めている。6月*1) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 文久三年自五月七日至仝月八日(其一)」番号87生麥殺傷一件小笠原長行償金付度ノ事ニ意ヲ決シ是夕海路横濱ニ至ル。軍艦の中橋に青色の戦旗を掲げ、外国奉行がこれを通訳の森山に聞いたところ戦旗を意味すると答えた、とされている。*2) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 文久三年自五月九日(其四)」番号75老中格小笠原長行通告各国公使。ただし、そこでは、この文書の原本は伝わっておらず、オールコックの著書に掲載されたものを訳出したと解説されている。なお、前掲アラン・コルナイユ著「最初の日仏条約」282頁にもデュシェヌ=ド=ベルクールが外務大臣に宛てた書簡の付録としてこの通告の仏訳が出ているが、全く同内容である。13日、外国奉行の菊池伊予守隆吉及び柴田日向守剛中がニールに回答延期の了解を求めたがニールは難詰、結局、幕府は戦端が開かれるのを避けるため賠償金を払うことに決し、外国奉行の両名が翌14日、賠償金支払の約定書をニールに手渡すも、支払期限の18日になっても支払は行われなかった。これは、朝廷が賠償金支払には反対であると分かっている中で、その話を受けたであろう将軍後見役の一橋慶喜が京都から江戸に戻ってくるとの話が出たための方針変更だったようであるが、ニールは激怒し6月22日、事態解決の全権をイギリス海軍のオーガスタス・レオポルド・キューパー東インド・中国艦隊司令官に委任、イギリスと日本の間にいつ戦闘が起きてもおかしくない状態となる。幕府側の記録によれば、6月23日朝、イギリス軍艦2隻が戦旗を掲げて品川に入り幕府側は驚愕*1、6月24日ついに老中格小笠原長行は横浜で11万ポンド(44万ドル)の賠償金をニールに支払い、かつ、同日、小笠原は各国公使宛に、「我が国と外国との交際は極めて国内世論に反するため諸港を閉鎖し居留外国人を退去させることとしたい、この旨は朝廷から将軍に命令があり、将軍から自分に命令があったため貴殿にお伝えしたものでありこれを了解してほしい、いずれ後刻面談の上事情を申し上げる」との書簡を渡す*2。小笠原は、賠償金支払で一段落ついた直後に、こうした条約を破棄するがごとき非常識な書簡を渡したのだが、将軍徳川家茂が4月24日に義兄の孝明天皇に攘夷の約束をし、その約束の実行期限が6月25日に迫っていたからというのが表向きの理由であった。日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(10・最終回)~日仏外交・通商交渉の草創期~ ファイナンス 2019 Mar.35SPOT

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