ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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竹内はアール・ラッセル外務大臣との間でロンドン覚書を結び様々な代償措置と引き換えに江戸・大坂の開市と新潟・兵庫の開港を1868年1月1日に延期することに成功する。ラッセル大臣は、翌日、ロンドンの欧州各国の大使に覚書の写しを送り、当初期限通りの開港を日本に行わせようとすれば、皆の貿易が脅威にさらされると警告したという*36。一行は、続いてオランダ、プロイセン、ロシアと訪問し、9月12日にロシアと開市開港延期について覚書を結び、また9月22日に再度パリに到着した後、オランダからの開市開港延期を承諾する旨の覚書を得て、改めてフランス政府との交渉に臨み、10月2日、竹内とトゥヴネル外務大臣との間で、○日本政府が外国人を排斥する旧法を廃すること○フランス外交官の交通往来の自由に対する障害を取り除くこと、また、フランス外交官が江戸・横浜にて平穏に居住できるようにすること○日仏条約第8条に定められている貿易の自由に対する障害を取り除くこと○使節団は帰国後、外国貿易のため対馬の開港が良いとフランス政府が言っていること及び関税を原因と*36) 同上。*37) この覚書についてもフランス外務省外交史料館に和文、仏文、蘭文がそれぞれ保存されており、それぞれに竹内下野守、松平石見守、京極能登守の花押が記され、トゥヴネル外務大臣の署名がなされている。*38) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 文久二年自閏八月九日至同月十二日」番号97益頭尚俊欧州日記や番号99幕末遣欧使節航海目録には海軍軍港ローホウないしロシホーと表記され、またヲシャロンテ川の川港と記録されているが、ロシホーやヲシャロンテの表記はフランス語の聞き取りとしては割と良い線をいっており、ある意味、現代の日本語表記のロシュフォールやシャラント川よりも実際の発音に近い。*39) 本文で引いたデュシェヌ=ド=ベルクールの1859年10月20日付書簡についても、資料的価値の観点から、ここで掲載することにした。なお、その内容は、完全な翻訳ではないにしろ、本文でほぼ紹介したので、ここでは日本語の翻訳は付さなかった。してフランス産品が日本で普及しないため税を引き下げる緊急の必要がある旨を将軍及び執政に伝え、酒及びフランス産品の関税の減税方法につき在日フランス公使と取り決めること○繭及び蚕を日本人から外国人に売り渡すことを可能とすべきとのフランス政府からの要求を使節団から日本政府に報告すること○貿易を容易にするため保税倉庫を建てるべきことを日本政府に建白することなどフランス側が求めた様々な代償措置を記し、かつ、1863年1月1日から5年間、すなわち1868年1月1日まで、新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市を延期することを記した覚書を結ぶのである。*371862年10月5日夜、一行はパリを発ちロシュフォール*38まで汽車で移動、フランス海軍輸送艦ラン号に乗船してポルトガルのリスボンに行き、ポルトガル国王に謁見した後、リスボンを発ってアレキサンドリア上陸、スエズから同海軍輸送船ウロペアン号に乗船し、香港で同海軍通報艦エコ号に乗り換え、1863年1月29日に江戸に帰り着いている。(注) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。なお、文中の日付は旧暦は用いず、すべて太陽暦を用いています。(付録)1859年10月20日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡(原文)*39(En bas de la première page)A Son Excellence Monsieur le Comte WalewskiMinistre et Secrétaire d’Etat au Département des aaires EtrangèresCONSULAT GÉNÉRALDE FRANCEà Yeddo (Japon)Direction PolitiqueN°11Yeddo, le 20 octobre 1859Monsieur le Comte,J’ai eu l’honneur de rendre compte à Votre Excellence des erreurs de copie que j’avais trouvées dans les textes hollandais et Japonais de l’instrument du Traité qui a été conclu avec le Japon et qui porte la ratication du Taïcoun ainsi que de la négociation que j’avais entamée avec le Gouvernement Japonais en vue de faire rectier ces lapsus. Je suis parvenu à obtenir des ministres des aaires Etrangères une Déclaration qui rend à ces articles leur véritable portée par référence aux articles correspondans du Traité Anglais. Les erreurs portaient sur les articles 7 et 19. Ainsi, dans l’article 7 où il s’agit de la ファイナンス 2019 Feb.47日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(9) SPOT

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