ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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(3)グロ男爵の再登場、ロンドン・パリ覚書トゥヴネル外務大臣が指名したのは、フランスの全権として日仏条約を締結したグロ男爵その人であった*29。彼は、1862年4月16日、一行が宿泊するオテル・デュ・ルーヴルを訪ね、開市開港延期交渉が始まる。日本側は輸出超過(による物資不足)で物価が騰貴し国民生活が困窮しているので開市開港を強行すれば人心を刺激しどのような禍が生じるか分からないと告げる。グロ男爵はそのことは大臣に伝えるが、まず日本側からの他の要求事項を聞きたいと言い、日本側から開港以外のフランス軍艦停泊の件、銅器輸出の件、フランス側からの蚕繭輸出要望の件、フランス騎馬隊の日本への呼寄せの件等について述べ、この日の面会は終了する*30。続いて4月19日、グロ男爵らは再び日本側一行を訪れる。グロ男爵は、そもそも調印した条約の変更は受け入れ難いが使節が来られたこともありフランス側からもいくつか言いたいことがあると言って、(ア)各藩藩士が条約違反を犯した場合それはその主の大名の罪と言えるのかとの疑問、(イ)踏絵は廃止したのにやはり日本人に対してキリスト教を禁教とし続けている件、(ウ)殺害された中国人及び負傷したナタールへの賠償金の件を提示される。フランス側は開市開港についての意見を日本側に聞かれるが、長文となるので後から紙を出すと返事をする。繭の輸出の件については、日本側は、生糸も足りないのに、日本商人が外国人の依頼を受け繭も売り渡しているが、それでは元を断ってしまうようなものであるし、元々売買品と思わず条約に売買禁止を書き漏らしてしまったと述べたが、(清とも条約交渉をした)グロ男爵は繭の輸出は清においては自由であると反論する*31。面会後、グロ男爵からメモが届き、日本では外交官の安全が確保されず護衛も一般人との接触を妨げるだけで護衛の役に立っていないこと等を批判した後、外交官の国内旅行の安全確保、キリスト教禁教の触書の*29) 同上資料によると、「ノヘル」も同じく交渉相手方として指名されている。これは当時のフランス外務省政務局ノエル米・インドシナ・係争部長を指すと思われる(帝国年鑑1862年版110頁、《Almanach Impérial pour 1862》)。*30) 同上番号173使節竹内保徳等男爵グロー對話書。*31) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 文久二年自三月二十九日至三月是月」番号54使節竹内保徳等委員男爵グロー等對話書。*32) 同上番号60佛国全権委員グロー等覚書。*33) 同上番号67使節竹内保徳等委員男爵グロー等對話書。*34) 同上番号82使節竹内保徳等仏外務大臣ツブネル對話書。*35) マイケル・オースティン著「帝国主義との交渉、不平等条約と日本外交の文化」86頁(《Negotiating with Imperialism -The Unequal Treaties and the Culture of Japanese Diplomacy-》 by Michael R. Austin)。撤廃、殺害された中国人の家族及び負傷したナタールへの賠償金支払、蚕繭の輸出、酒の輸入関税の35%から5%への引下げ、フランス軍艦の日本諸港への入港の許可等を代償措置として認めるのであれば、日仏条約を改正し、江戸・大坂の開市と新潟・兵庫の開港の時期を、改正条約署名の日から3年先に延ばしても良い、という提案がなされた。ここでは、グロ男爵が条約締結時に果たせなかったワインの関税率の引下げについて、「フランス名産品の酒をイギリス名産品の木綿と同じ関税率にするのは当然」という理屈で改めて求めているのが興味深い*32。4月22日、彼は再び日本側一行を訪ね、日本側からは開市開港の3年先への延期では日本の人心を納得させる時間としては足りず差し当たり「無期限」延期とさせてほしいと高めの球を投げるも、グロ男爵は、清と同じ交渉をして3年先としたことや、3年先でも条約締結時から見れば7年後でありそれより後に延期することは認められず、「無期限」を主張するなら交渉は続けられないが、外務大臣には報告すると回答している*33。そして、4月28日、一行はトゥヴネル外務大臣と再度会談し、同大臣から、開市開港を3年先にするなら交渉も整うと思うが無期限というのでは交渉にならず、イギリスやオランダも応じないであろうとの回答があったので、日本側から、10年先でどうかと提案するも、同大臣からはとても受けるわけにはいかず他の国も決して承認しないだろう、との回答がなされる。日本側は説得を試みるも、同大臣からは、(他国との交渉後)帰途にもう一度寄ってもらえれば交渉に及ぶとの答えがあり*34、結局、日本側一行は4月29日に一旦イギリスに向けて旅立ち、翌日ロンドンに到着する。一行は、イギリスで、5月30日に駐日公使オールコックが帰ってくるのを待つ。彼はロンドンへの帰国前にパリに寄って、開市開港の3年超の延期の必要性をナポレオン三世とトゥヴネル外務大臣に説いたという*35。そして、オールコックの協力を得て、6月6日、46 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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