ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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年1月8日付で、フランス総領事館から写しを得たことを報告しつつ提出し、それを取り調べた後は外国奉行に返却いただければそれぞれきちんと取り計らうとの書面を付している。そして、2月15日、済海寺において、外国奉行の酒井及び新見とデュシェヌ=ド=ベルクールとの間で、証書の再調印について協議が行われる。このときの応接録*18を見ると、日本側が同日の再調印を予告しておらずフランス側の仏文の準備が間に合わないため、再調印は2月17日に済海寺で行うことで合意するとともに、日本側から間部が老中を退いたので今回は名前のみ記し花押は記さないとの説明がなされている。なお、フランス外務省外交史料館には、間部の花押を記した最初の版のみが残っており、2月に作り直した間部の花押のない版は残っていない*19。8開港開市延期問題(1)条約実施を巡る諸問題条約そのものの手続はこうして決着を見たのであるが、実施を巡っては様々な問題が発生する。まず、外国人に対する攘夷テロの問題である。フランスに限っても、1859年11月5日、横浜のフランス領事館のジョゼ・ロレイロ領事代理の従者の中国人が斬殺され、12月10日にはフランス総領事館員が4人の武士に囲まれ白刃で脅され、1860年10月30日にはフランス公使館員旗番のイタリア人のナタールが銃で撃たれ負傷している*20。デュシェヌ=ド=ベルクールは犯人捜索を幕府に要請するも結局逮捕できず、殺害された中国人従者の遺族及びナタールに対する幕府との賠償交渉も容易に解決を見ない状況となった。フランス以外の国では、例えば、アメリカ公使館の通訳ヘンリー・ヒュースケンが1861年1月14日に襲われ翌日死亡し、デュシェヌ=ド=ベルクールは駐日イギリス公使のオールコックとともに、外国人の安全が確保さ*18) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻554頁。*19) 一方で、前掲「大日本維新史料稿本 安政六年自九月廿一日至仝月廿四日」番号101日佛條約第七條第十九條説明書においては、文書整理票には安政6年9月22日(1859年10月17日)の日付が付されるも、実際の証書の写しの中の老中の花押部分は、「間部下總守 花押欠 脇坂中務大輔 花押」と記されている。これは元々の証書が焼失したため1860年2月17日に代わりに調印し直したが、上記の経緯で間部の花押を記せなかった証書を用いたためと考えられる。*20) この間、大老井伊直弼が1860年3月24日に江戸城桜田門外で水戸藩脱藩浪士と薩摩藩士に暗殺されたいわゆる桜田門外の変も起きている。*21) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 萬延元年自閏三月廿六日至仝月廿八日」番号17老中書翰佛國領事及び番号27佛國総領事書翰老中宛。*22) 幕府は、この直前の1860年5月9日に、生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の5品目について江戸の問屋を経由する五品江戸回送令を出し、高値で取引可能な開港場に在郷商人が直接この5品目を持ち込み需給逼迫・物価高騰が起きている状況を防止しようとした。*23) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 萬延元年自四月七日至四月十六日」番号91米国全権公使「ハリス」書翰老中脇坂等。れないとして公使館員とともに1月26日に横浜に退去、幕府の説得に応じて江戸に戻ったのは3月2日であった。その他にも、同年7月5日、イギリス公使館が襲われる東禅寺事件が起きるなど、外国人へのテロが頻発し、幕府は欧米から外国人の安全確保を強く求められている状況にあった。また、日仏条約第8条に定める商品の貿易・売買の自由に関しては、1860年5月26日、幕府は外国事務老中の脇坂及び安藤対馬守信正の連名でイギリス、フランス、アメリカの各公使に宛てて、銅器の輸出を禁ずる通知を行う。これは、元々、銅地金の売却は幕府の入札で行うことが日仏条約貿易章程第7則で定められていたところ(5(6)参照)、これを回避するため銅器の形にして売却・輸出することが横行したための措置であったが、デュシェヌ=ド=ベルクールは6月4日に銅器の輸出禁止は貿易を許す日仏条約の本旨に反すると抗議の書簡を幕府に提出している*21。また、6月5日には脇坂及び安藤の両名は、アメリカのハリス公使に対して輸出で国内需要が逼迫し価格が高騰した生糸・蝋油の輸出禁止*22とそれについてのイギリス・フランス両公使への協議について書簡を発するも7月3日ハリスに拒否されている*23。このように、自由貿易による輸出増に伴い国内では物品の需給が逼迫し幕府が輸出統制を試みたため、欧米は条約違反であるとの批判を強めていった。殊に生糸については、フランスにとっては、蚕病で打撃を受けた生糸産業の需要の一部を埋めるものであり特に統制されたくない物品の一つであったと思われる。また、イギリス・フランスへの輸出増の背景には、1860年10月まで続いた清とイギリス・フランスの間のアロー戦争の影響もあった。例えば、同年3月14日以降、デュシェヌ=ド=ベルクールは幕府に、馬3千頭の輸出許可を求め、幕府は当初は拒否したものの最終的に国内需給を勘案の上、馬1千頭の輸出を4月44 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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