ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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(参考3)日仏条約第7条及び第19条に関する日仏間の第二の証書【漢字かな混じり文(フランス外務省外交史料館には存在せず)】*15佛蘭西國と日本國と之條約書第七條第十九條共蘭文片假字文意徹底せさる所有に因て右は英吉利第六條同第二十三條と同樣可心得と之添書し候事にて新規條件を添又者改候廉者無之候後證之爲猶書面爲取替候事赤松左衞門尉酒井隠岐守小倉九八郎【カタカナ文】フランス ト ニツポン トノ ジヨ ヤク シヨ ノ ウチ ダイ ヒチ ジヨ ダイ ヂウ ク ジヨウ ブン イ テツ テイ セザル トコロ アルニ ヨリ ミギハ イギリス ダイ ロク ジヨウ ヲナジク ダイ ニ ジウ サン ジヨウ ト ドウ ヨウ コヽロヘ ベシ ト ノ ソヘシヨ イタシ サムラフ コト ニテ シンキ ジヨウ ケンヲ ソヘ マタハ アラタメ サムラフ カドハ コレナクサムラフ コウシヨウ ノ タメ ナヲ シヨウ メン トリ カハセ サムラフコト赤松左衞門尉(花押)酒井隠岐守(花押)小倉九八郎(花押)署名(デュシェヌ=ド=ベルクール総領事のもの) 在日本フランス総領事館の印【仏文】Seconde Déclaration des Plénipotentiaires au sujet de la Déclaration explicative des articles 7 & 19Attendu qu’il existait dans les textes du Traité conclu entre la France et le Japon, deux articles, l’article Sept et l’article Dix neuf, des erreurs qui les rendaient susceptibles de fausse interprétation, il a été fait une Déclaration ayant pour objet de faire concorder exactement le sens de ces deux articles avec celui de deux articles correspondans du Traité anglais, le sixième et le Vingt troisième, ce qui a été fait sans intention de rien changer aux stipulations antérieures du Traité et sans y rien ajouter de nouveau.Et c’est pour le prouver formellement (à l’avenir) que la présente pièce a été ajoutée à la première déclaration.Yedo, le 17 octobre 1859(Paraphe d’Akamatsu Saemonnojo)(Paraphe de Sakaï oukino Kami)(Paraphe d’Ogoura Kouhachiro)Sceau du CONSULAT GÉNÉRAL DE FRANCE AU JAPON*15) 漢字かな混じり文はフランス外務省外交史料館資料の中に見当たらず、前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻479~480頁を参照した。外国奉行の酒井及び赤松と目付の小倉の名があることから、デュシェヌ=ド=ベルクールの署名もあった可能性はあるが、ここでは、幕末維新外交資料集成掲載の文書をそのまま忠実に再現した。*16) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻480頁及び550頁並びに前掲外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國往復書翰」二番。当時、次のような書簡が幕府からフランス総領事館にしばしば出されていたが、草書体で読みにくかったと考えられる上に文体も難しく、受ける側のフランス総領事館の方も良くこれを解読して返信を行っていたと感心する。「佛蘭西使臣館通辯官 エスクワイル ジラールえ 以書翰申入候條約書第七條第十九條文意徹底せさる所あるにより其證書爲取替右え添候書付も取直し候処此度之炎上にて焼失せし故猶其コンシユルセ子ラール調印を請受度に付右書類写しを差越様致し度候 謹言 安政六年未十一月二日 溝口讃岐守 新見豊前守 村垣淡路守 堀織部正」*17) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻480~481頁、前掲外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國往復書翰」二番及び前掲東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 安政六年自九月廿一日至仝月廿四日」番号127佛國領事之書翰。すべてカタカナで書かれているがそれを漢字かな混じり文にすると以下の通り。「外国御奉行樣方へ 書翰を以て申し上げ候 我が頭日本においてマゼステーフランス皇帝のエキセルレンシーコンシュルゼ子ラールの御命に従って昨年十月九日マゼステー日本大君と マゼステーフランスの皇帝と取極めたる条約の第七と第十九ヶ条の本意を述べ極める二つの書付の写しをここに上げ奉り候 拝具謹言 一千八百五十九年十二月二十日 フランス本書に当たる フランスコンシユルゼ子ラール次官 メルロ」この第二の証書は、(3)で述べたように、第一の証書の作成によって幕府がフランスに対し新たな譲歩をしたととられたくないとの懸念を示していたのに対し、フランス側が添付を提案したものである。そして、この第二の証書には、「第一の証書が日仏条約に新規の条件を添えたり改正したりするものではない」と書かれている。また、カタカナ文には外国奉行の酒井及び赤松と目付の小倉の花押が記され、デュシェヌ=ド=ベルクールの署名もなされている。仏文にも酒井、赤松及び小倉の花押が記されているが、フランス側のデュシェヌ=ド=ベルクールの署名はなく、在日フランス領事館の印のみが押されている。(5)江戸城の火災による証書の焼失このように取り交された証書であるが、日本側保管のものは20日あまり経った1859年11月11日、江戸城本丸御殿の火災で焼失してしまう。そこで、11月25日、外国奉行の溝口讃岐守直清ら4名の連名で、フランス総領事館の通訳ジラール神父に対し、デュシェヌ=ド=ベルクール総領事の調印を請い受けたいので、証書の写しを送ってほしいと書簡を出している*16。12月20日、メルロ書記官から返信がなされ、第一・第二の証書のいずれも、カタカナ文にて写しが外国奉行に送られている*17。外国奉行は(老中に対し)1860 ファイナンス 2019 Feb.43日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(9) SPOT

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