ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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○本証書には日仏全権に加え老中の名も載せることで、この証書で改めた文言は元から日仏条約に規定してあったようにすべきことを述べ、直接的に条文の読替えを宣言した案となっている。(3)その後の二回にわたる対面協議この証書原案がフランス側から日本側に提示された後、酒井が10月13日に*9、酒井に加え同じく外国奉行である赤松左衛門尉範忠と目付の神保伯耆守長興が10月15日に*10、それぞれ済海寺を訪れてデュシェヌ=ド=ベルクールと対面している。この二回の対面の議論の内容を記録した文書も見当たらないが、10月20日付のデュシェヌ=ド=ベルクールの書簡から大体の内容は推測することができる。デュシェヌ=ド=ベルクールは、まず、条文内容の確定方法という形式論の問題について、○自分が江戸に持ってきた(批准書における仏文の)条約文にも同じ誤り又は省略が含まれていたため、この問題の解決はかなり大変だったこと○あらゆる努力を尽くしたが、老中提案の証書に甘んじざるを得ず、また、この証書がグロ男爵と日本が締結した条約にその他いかなる変更ももたらさないとする(もう一つの)証書を自分の側から付さざるを得なかったこと○フランスとの本件交渉の噂が、秘密条約をもってフランスに対し新たな譲歩をしたと攘夷派の大名や他の欧米列強の代表に思わせることになるのではないかとの懸念に苛まれている幕府に対して、結論を得るためには譲歩をしないわけにはいかなかったこと○(証書原案では)より自然な文章を作成し日英条約の条文も参照したが、協議の遅さとともに、本件を一緒に扱った日本側全権の酒井の当惑に照らして、日仏条約の条文とそれと一致する日英条約の条文との間の完全な比較類推を行う証書以外のものを得ることは難しいと理解して、条文の修正をほとんど伴わない日本側の証書を受け入れたことを述べている。ここで分かるのは、幕府が、攘夷派や*9) 前掲「大日本維新史料稿本 安政六年自九月廿一日至仝月廿四日」番号124村垣弾正公日記。*10) 前掲「大日本維新史料稿本 安政六年自九月廿一日至仝月廿四日」番号125村垣弾正公日記。3(3)で日仏条約交渉時に6番目の「奉行」すなわち野々山鉦藏(又は駒井左京頭朝温)が目付として見張りの役目を帯びていたとフランス側が認識していたことを書いたが、ここでも後で恐らく外国事務老中への報告を行うために目付の神保が付いてきたのではないかと考えられる。他の列強に幕府が譲歩したと思われないよう、条文修正と思われる形をとりたくないとの態度を示し、それをフランス側が受け入れたということである。すなわち、(2)で見た通り、フランス側は、当初、条約文言の読替えという直接的な証書原案を示し「あらゆる努力を尽くした」が、(4)で見るような、読替えを伴わない抑制的な「老中提案の証書に甘んじざるを得」なかったのである。続いて、フランス側作成の証書原案にはなかった第19条の和文・仏文間の食い違いである。これも最終的な証書に含まれているので、二回の対面の際に、フランス側が提案したものと思われる。デュシェヌ=ド=ベルクールが、10月20日付書簡において、第19条について述べているので、その部分を訳してみる。「私は、その後、日本の全権が【第7条の解釈問題についてより直接的な対応を】躊躇している動機を探し、自分がアメリカの公使との間で持ったばかりの会談の後で、第19条が他の列強に対するのと同じ特権及び待遇を我々にも保証していることに思いを致すことなく、裁判管轄権について規定した我々の(条約の)取極に我々を縛り付けたいとの日本側が抱いている希望にその動機があることを見付けたと思っている。しかし、日米条約によれば、日本臣民とアメリカ市民が同時に関係する問題において困難がある場合、領事は、日仏条約第7条や日英条約第6条のそれぞれ最終パラグラフによる日本当局参加の合同裁判所のようなものは認めない。日本側は、疑いの余地なく、フランス臣民に対して自国民が提起した訴えについて、特に深刻な困難が存在する場合には、日仏条約又は日英条約に定める規定の適用のみがなされて、日米条約に定める規定の適用はないと思っているであろう。私が蘭文の第19条(我々は蘭文が最終的な解釈の拠りどころになると知っている)において見つけた省略の補正【最恵国待遇の対象に他国に「既に認められている待遇」を加える補正】を行う証書は、幸いにして、我々に他の国に認められている待遇に接する権利を与えるとともに、この条を刑事分野において我々の単一裁判管轄権の原則を無傷のまま維持するために援用することができる。」(【 】は筆者が追加)40 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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