ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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文・仏文のいずれを正しいとするかという実質論の問題と、(イ)それをどういった手段で確定するかという形式論の問題の二つの問題があった。まず、前者については、○第22条が和文・仏文間で解釈の相違が生じた場合には蘭文によると定めるところ、第7条・第19条とも和文は蘭文と同内容を規定であるため和文が正しく仏文が誤りという結論に一見見えるが、○実は第22条は日仏条約の蘭文が日米条約・日英条約・日露条約の蘭文と異ならないとも定めており、日英条約の蘭文に照らすと日仏条約の蘭文が誤りでが日英条約の蘭文と同内容を規定する日仏条約の仏文が正しいという結論になる。結果的にこの実質論の問題については日英条約の蘭文(すなわち日仏条約の仏文)によるべしというフランスの主張に対し日本側は異議を唱えず、むしろ、当時の日本国内の情勢を反映して、条文内容の確定方法という形式論の問題の方に力が注がれたように見え*3) フランス外務省外交史料館所蔵マイクロフィルム中の1859年10月20日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡。*4) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻478~480頁及び外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國往復書翰」。*5) フランス語ではDéclaration(宣言)と呼ばれている。*6) 東京大学史料編纂所維新史料綱要データベース「大日本維新史料稿本 安政六年自九月廿一日至仝月廿四日」番号123村垣弾正公日記。*7) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻478頁、「『トセンデベレクル』ヨリ證書ノ案文ヲ送レル書翰」及び「右證書案」並びに前掲外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國往復書翰」壱番。*8) 実際には、日露条約には日仏条約第7条に対応する条文はない。る。以下、この問題への対処について、デュシェヌ=ド=ベルクールが1859年10月20日付でヴァレヴスキ外務大臣宛に発出した書簡*3及び日本側資料所収の彼の書簡等*4から、経緯を追ってみたい。(2) 仏側の日本側への申入れと証書*5原案の 作成デュシェヌ=ド=ベルクールは、1859年10月6日、日仏条約第7条の和文・仏文間の食い違いについて、外国奉行の酒井がフランス総領事館の済海寺に来訪した際に申し入れたようである*6。両者の議論を記録した文書は見当たらないが、酒井との議論を踏まえ、面会の翌々日の10月8日付でデュシェヌ=ド=ベルクールが酒井に送った証書原案の写しが日本側に残っており、その内容は次の通りである*7。なお、原文はすべてカタカナであるが、漢字かな混じり文に修正した。また、【 】部分は筆者が追加した。(参考1)デュシェヌ=ド=ベルクールが日本側に送付した当初の証書原案酒井隠岐守様フランスのコンシュルゼネラール【=総領事】酒井隠岐守様え拝謁したる節フランス条約の少し違いたることについて証拠書の下書きしたためたるによって御覧に入れます 拝具謹言 一千八百五十九年十月八日 トセーンデベレクルフランスと日本と一千八百五十八年十月九日取極めしを一千八百五十九年九月【二】十二日取交せたる条約の第シヨ【七(シチ)の誤りか】箇条を説き述ぶる事の証拠書江戸において一千八百五十九年九月二十三【二十二の誤り】日取交したるフランス条約にオランダ文と和文とカタカナとに心付かずして第七箇条に間違いありたる故条約を見改めたる全権方はこの箇条取り直すため互いに相談し決めたる事には右第七箇条は丁度条約の第二十二箇条に言うた通りにイギリスとヲロシヤとのオランダ文の同じ箇条に任せて説き述べるべしと決めたり これは右の箇条に載せたる奉行所とあるはフランスコンシュル【=領事】とすべし その証拠書には両国の全権日本にては酒井隠岐守様フランスにてはドセーンデベレクル様また日本御老中様も名を載せたるによって丁度今改めたる書付は本条約に元より載せたるが如くすべしこの証書原案は、第7条のみ取り上げ、第19条には触れていないため、10月8日時点ではデュシェヌ=ド=ベルクールは第19条について和文と仏文の間で修正すべき食い違いがあると思っていなかった可能性が高い。その上で、この原案では、第7条について、○間違いがあったため、第22条に規定する通り、第7条は日英条約・日露条約*8の蘭文の同じ条文に則って解釈すべきと日仏全権の間で決めたこと○したがって、(日本人がフランス人を訴える場合に、蘭文、漢字かな混じり文、カタカナ文において)「奉行所」に訴えることとされているのは「フランス領事」と読み替えるべきであること ファイナンス 2019 Feb.39日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(9) SPOT

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