ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎6日仏修好通商条約の発効と批准(11)補論:批准書交換式の場所日仏条約の批准書交換式の場所については、これまで1859年9月30日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡にある「le Palais des Aaires Etrangères」の表現を「外務御殿」と直訳してきた。しかしながら、○批准書交換式の打合せの面会について、1859年9月15日の老中の間部及び脇坂発のデュシェヌ=ド=ベルクール宛書簡*1を見ると、9月17日に脇坂の屋敷で行うと知らせる一方、6(6)で述べた通り9月19日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡において(一日のズレがあるが)9月18日に「外務御殿」で行うと日本側から知らせてきたことが記されており、○さらにヴァレヴスキ外務大臣宛の9月30日付の書簡では、9月22日の批准書交換式の際老中達がデュシェヌ=ド=ベルクールを迎えた部屋は、初回の面会(打合せの面会)の際に彼が通された部屋だとも記されていることから、「外務御殿」とは脇坂の屋敷を示し、9月22日の日仏条約の批准書交換式も老中の脇坂の屋敷で行われたとみて間違いないであろう。ちなみに、同年7月8日に行われた日英条約の批准書交換式も間部の屋敷で行われたとされており*2、国と国との間の公的な儀式である条約の批准書交換式が、江戸城本丸といった場所ではなく、老中を務める者の藩邸で行われていたのが興味深い。なお、脇坂家の屋敷は、現在、カレッタ汐留、汐留シティセンター、パナソニック東京汐留ビルや「汽笛一声新橋を」の旧新橋駅跡で0哩標識(ゼロマイルポスト)がある辺りを占めていた。条約批准という意味*1) 前掲外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國往復書翰一」三番の「未八月十九日被遣」。*2) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻503頁。での日仏条約の起点が、その13年後の1872年には日本初の鉄道の正式開業の起点になったわけであり、これはこれで大変興味深い。7 日仏修好通商条約第7条・第19条の解釈問題(1) 第7条及び第19条の和文・仏文間の条文の食い違いこのように条約の批准書の交換は無事終了したが、日仏条約の第7条及び第19条については、和文と仏文の間にフランス側にとって見過ごせない食い違いがあった。このため、デュシェヌ=ド=ベルクールは日本側と交渉しこの問題の解決を図っている。まず、日仏条約第7条であるが、日本人とフランス人の間で争いのあったときの裁判管轄権を定めているところ、4(8)で述べた通り、日本人がフランス人を訴える場合には、仏文ではフランス領事に訴えることとされる一方で、和文(漢字かな混じり文、カタカナ文)及び蘭文では日本の奉行所に訴えることとされ、両者に食い違いが生じている。また、日仏条約第19条であるが、フランスに対する片務的最恵国待遇を定めているところ、4(20)で述べた通り、○仏文では、他の国に「今後認められる待遇」だけでなく「既に認められている待遇」についてもフランスに認めるべき旨を規定しているが、○和文(漢字かな混じり文、カタカナ文)及び蘭文では、「今後認められる待遇」のみを最恵国待遇の対象として規定し、「既に認められている待遇」については触れていない。この問題に関しては、(ア)第7条及び第19条の和日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(9)~日仏外交・通商交渉の草創期~38 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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