ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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今回の原稿は、元々、日仏修好通商条約に関する記事を書くため、フランス外務省外交史料館で調べものをしていた時に、1944年のパリ解放以降の日本との関係を記したフランス外務省の資料の存在にたまたま目が留まったことがきっかけで書き始めたものである。また、別の機会に、同じ1944年にアメリカ日系人部隊第442連隊が、フランス東部で激戦を戦い、現在でもなお最多の勲章を受けた部隊として知られていることも知った。まったく同じ年に、日本からインド洋を越えてやって来た日本人が遠いフランスの地で困難な状況に置かれ、日本から太平洋を経てアメリカに移民した日本人の子孫が日系アメリカ人として大西洋を越え同じフランスの地で困難な従軍に直面するという、歴史の偶然に感慨を覚えずにはいられなかった。しかし、このエピソードを書いていて筆者が本当に気づかされたのは、戦時下の大変な状況にあって、困難に直面した人を助けようという同胞同士や国籍を越えた人々の勇気ある行動である。パリ脱出時やドイツ滞在・避難時に日本国大使館職員が邦人保護に努めたのは職務上当然のことではあろうが、ドイツに捕らわれたフランス人の解放に努めた日本人、パリ解放後に敵国人として捕らわれた日本人の解放に努めた日本人やフランス人、そしてフランス人を解放し厳しい戦いの後にもかかわらず自らの食料も渡したアメリカ日系人部隊といった話があったことも知るにつけ、75年の時を経た今でも「厳しい状況のときこそ他者を助ける勇気と思いやりを」と教えられたようでならない。(注1) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。(注2) 高和領事達が軟禁されていたペルピニャンのホテルは現在はなくなっているが、当時の建物は現存しており、ペルピニャン近郊在住で「明治と共和国」(République&Meiji)という仏日友好団体を主催するダニエル・タバール(Daniel TABART)氏に写真を撮ってもらい提供して頂いた。タバール氏に改めて感謝の意を表したい。〈参考文献〉フランス外務省外交史料館資料E184-1及びE216-1日本の外務省外交史料館資料足立邦夫著「臣下の大戦」(新潮社)和田桂子・松崎碩子・和田博文編「両大戦間の日仏文化交流」(ゆまに書房)ブリュイエールの観光案内所パンフレット「Bruyères Honolulu... Un jumelage hors du commun」アメリカ合衆国陸軍軍事史センターホームページ中の 「CHRONOLOGY OF EVENTS442d Regiment Combat Team1-31 October 1944」(https://history.army.mil/html/topics/apam/442_chrono.html) ファイナンス 2019 Feb.3775年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》 SPOT

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