ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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いる*23。次に、パリにあった日本国大使館や関係機関の建物の取扱いについても若干触れたい。ヴィシー政権崩壊時に、在仏日本国大使館は中立国スイスの在仏公使館に対し、日本国大使館や関係機関の建物の管理を託しており、その結果、在仏スイス公使館はフランス臨時政府や連合国に対しこれらの建物への立入りを拒否していた。その後、スイスはフランスとの間で外交特権との関係で状況を整理し、1945年2月、日本の大使公邸・大使館事務所・陸軍駐在武官事務所・海軍駐在武官事務所・日本人会事務所はスイスの保護下に置かれる一方、例えば南満州鉄道パリ事務所はその保護下には置かれないという形で分類し、前者には、誰も中に入れないよう在仏スイス公使館の手で封印を行うこととされた*24。1945年5月にヴィシーにあった日本国大使館の動産がパリの大使館事務所に運び込まれ、1945年11月17日に至り、在仏スイス公使館とフランス外務省の間で調書が作成され、同日付でスイスの保護下に置かれていた日本の不動産・動産がフランス外務省に引き渡されることとなった*25。最後に、ドイツに脱出した在仏日本人達のその後である。まず、三谷駐仏日本国大使及びその一行の館員は、フランス軍が迫ったのを受けて1945年4月21日、ジグマリンゲンを後にし、4月23日にスイスに入国、25日に在スイス日本国公使館のあるベルンに到着している。また、ヴィシーにいた館員のうちベルリンの大使館に勤務したのちベルンの公使館に転勤となった者等もいる。これらスイスにいた外交官は、1946年1月23日になってようやくベルンを後にし、1月29*23) 同上E216-1中に薩摩治郎八他の嘆願書がいくつか残されている。*24) フランス外務省外交史料館資料E184-1中の1945年2月20日及び2月27日付在仏スイス公使館のエイド・メモワール。*25) フランス外務省外交史料館資料E184-1中の1945年11月17日付在仏スイス公使館・フランス外務省の間の調書。*26) フランス外務省外交史料館資料E184-1中の1946年2月26日付内務大臣から外務大臣(アジア大洋州局)宛書簡。*27) 現在、ヴィーゼンブルク/マルク自治体のレーツという小村に属する集落である。*28) ここには、湯本武雄海外駐箚財務官(ドイツ・イタリア)及び有吉正大蔵事務官の二人が含まれている。なお、元々大蔵省の海外駐箚財務官はイギリス・フランスを担当しロンドンに駐在していたが、第二次世界大戦開戦後は、ドイツ・イタリア担当となり、ベルリンに駐在していた。湯本財務官は、1944年4月22日、フランス領インドシナにおける軍費支払のヴィシー政権との打ち合わせのため、ヴィシーにも来ている(外務省外交史料館「他官庁官吏ノ出張関係雑纂 第二巻」の「8.大蔵省」)。*29) 外務省外交史料館「第二次欧州大戦関係一件/在留邦人保護避難及引揚関係 独、墺の部 第二巻」。なお、フランスからの避難者はドイツのメクレンブルク州シャルロッテンタール(現在クラーコー・アム・ゼー自治体に所属)にもいたが、こちらは5月2日にソ連軍に占領された後、5月12日ソ連軍派遣の自動車に乗せられ、5月17日ミンスクに到着、5月18日に鉄道でモスクワに向かい5月19日にモスクワ着、5月28日満州里着、5月31日新京着の日程で移動している。*30) このバードガスタインから日本への帰国に至る情報は、前述の「牡丹屋」の経営者の義理の親族のフランス人が、彼が1944年8月のパリ脱出の後バードガスタインに居たという情報を得て、彼がドイツのゲシュタポに捕らえられた義理の親族のフランス人の解放に尽力したという話も引きながら、フランス外務省に彼の安否を問い合わせ、それを踏まえてフランス外務省が在仏アメリカ大使館及びアメリカ国務省に問い合わせて得た回答に記述されている(フランス外務省外交史料館資料E216-1中の1945年7月12日付外務省個人事務局のメモ以降の一連の資料)。なお、「牡丹屋」の経営者はその後パリに戻り同じ場所で「ぼたんや」を再開したようで、三島由紀夫は「『夜の向日葵』あとがき」で1952年のブラジル・欧州旅行の際、パリでは「アヴェニュー・モザール(モーツァルト)一二四番地」の日本人経営のパンシォン(Pension,賄い付ホテル)「ぼたんや」に宿泊していたと記している。*31) フランス留学中にパリの大使館に外交官補として雇われ、戦後は東京大学教養学部フランス分科初代主任教授・教養学科長を務めパスカル研究の第一人者であった前田陽一や、有名バイオリニストで戦争当時パリにおいて活動していた諏訪根自子も、1944年8月にパリを脱出し、ドイツに避難した後は、最終的にこのバードガスタイン、アメリカ経由の逃避行を経ている。日にナポリを船で発って、マニラで乗り換えた後、3月26日、日本の浦賀港に帰り着いている。ペルピニャンに軟禁されていたマルセイユ領事館一行もニースに向かってスウェーデンからの引揚組と合流して日本に帰国したとされており*26、彼らも3月26日に日本に到着したのであろう。次に、ドイツに残留した者達である。1945年4月にベルリン近郊のブランデンブルク州マールスドルフ*27城等に避難していた日本人の一団には、フランスからの避難者も含んでいたが、同城は5月4日にソ連軍に占領される。同城にいた日本人は、ソ連がまだ日本との間で中立条約下にあったことが幸いしてソ連軍に拘束されることなく、5月18日に同城からベルリンに向かうことを指示され、続いて、5月20日朝、ベルリンの日本国大使館に籠城していた大使館員も合流し*28、ベルリンから列車でモスクワに向かう。5月25日、モスクワ到着、同日発でシベリアに向かい、チタにて列車を乗り換えて、6月3日、ついに旧満州(中国東北部)の満州里に到着、その後、一部は当時の新京(現在の長春)に残留、残りは朝鮮半島の羅津から船にて日本に向かい6月29日、敦賀に到着している*29。また、ベルリンにいた外交官はドイツ降伏前にドイツ外務省からオーストリアのバードガスタインへの移動を指示されており、フランスからドイツに避難した外交官や民間人の一部もバードガスタインに移ったところ、ドイツ降伏後の5月に米軍に抑留され、7月又は8月にアメリカに連行されている。そして、太平洋戦争終結後の11月24日(又は25日)に日本に向けて帰国している*30*31。36 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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