ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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442前戦連隊、第141戦闘連隊歩兵大隊の勇ましいアメリカ人兵士達は、我らの地を解放するためここに雄々しく散りぬ 1944年10月」とあった。この辺りは第442連隊がテキサス大隊を解放した場所なのである。近辺には針葉樹が鬱蒼と茂り、戦闘当時も濃霧だったことを物語るように岩々は苔むしていて、しかもこの季節は底冷えもする。散策するには良い場所で、今は戦跡を訪ねるハイキングコースも設定されているのだが、当時壮絶な戦いがここで繰り広げられことを想像すると、今更ながらに平和の有難みを感じるのである*14。ここで、パリに話を戻す。1944年8月中旬、フランス人と結婚し家庭を有しているといった理由で最終的にパリ残留を選択しパリから脱出しなかった日本人は、8月25日のパリ解放により、一日にして同盟国人から敵国人となった。9月6日、フランス臨時政府の植民地大臣から外務大臣の同意を得た上で内務大臣(国家治安警察局)に対しパリに居住する日本人の拘束要請が行われるが、警察は罪を犯していないと拘束できないと慎重で、40名と見込まれたパリ居住者のうち、第一波として拘束されたのは6名であった*15。その後さらに1人が拘束される一方で、年末までに5人が釈放されたようである*16。フランス臨時政府は、日本人を拘束しない場合、アメリカ等の反発が生じることを予想しつつ、日本軍が駐留するインドシナに多数のフランス人が在住していたため日本人を拘束した場合に日本側から報復されることも恐れており、結果、*14) ブリュイエールの観光案内所パンフレット「Bruyères Honolulu... Un jumelage hors du commun」(https://fr.calameo.com/books/ 000430870dbf10ec3ca90)はアメリカでの編成時からの第442連隊と第100歩兵部隊の行動と活躍について、地図入りで分かりやすくまとめてある。*15) フランス外務省外交史料館資料E216-1中の1944年9月6日植民地大臣から内務大臣宛書簡及び1944年10月26日付メモ。*16) 同上E216-1中の1944年12月7日付メモ。*17) 外務省外交史料館「大東亜戦争関係一件/交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係/一般及諸問題/在敵国本邦人救恤問題 第一巻」の「1.要救恤ノ実態及ソノ対策関係/3.在欧邦人救恤ニ関する件(20.6.6高裁案ヲ含ム)」。*18) フランス外務省外交史料館資料E216-1中の1944年11月9日付外務省外国フランス事業部メモ。*19) 同上E216-1中の1945年5月2日付外務省アジア局から薩摩治郎八宛書簡。*20) 同上E216-1中の1944年12月14日付マスト総督からフランス外務省アジア局長宛書簡。同総督は、日本への駐在経験が長く、クラメール駐日大使と同時期に日本に駐在武官として赴任していたこともある。また、ドイツのフランス侵攻時にフランス軍北アフリカ第3師団長としてフランス東部で戦い、降伏後ナチに捕らわれドイツのケーニッヒシュタイン要塞に投獄されるも、彼の友人で、パリ・ヴィシーの日本国大使館の駐在武官だった沼田英治陸軍大佐が要求して彼が釈放されたという話もあるという(アンリ・クイユ著「戦争日誌 ロンドン~アルジェ 1943年4月~1944年7月」261頁(《Journal de guerre Londres-Alger avril 1943-juillet 1944》par Henri Queuille)及びフィリップ・ヴァロド著「ペタンを取り巻いた人々の運命 1945年から今日まで」第5章の3.「レジスタンス下の陸軍(l'armée en résistance)」(《Le destin des hommes de Pétain de 1945 à nos jours》par Philippe Valode)の二冊を合わせ読むとそういう結論になる)。その後、マストはヴィシー政権下の第19軍団参謀長として、密かに連合国軍に協力しその北アフリカ上陸を助け、亡命政権を率いていたシャルル・ド=ゴールからチュニジア総督に任命されている。*21) 一方の日本側の動きであるが、日本軍による1939年の北部仏印進駐及び1940年の南部仏印進駐後も、フランス領インドシナにおけるフランス植民地政府は統治機構として保たれ、日本軍とフランス軍が共同防衛に当たる体制をとっていた。しかし、1944年8月のヴィシー政権崩壊により、インドシナのフランス軍がド=ゴール率いるフランス臨時政府寄りの行動を採ることを恐れた日本軍は、1945年3月9日、インドシナのフランス軍を攻撃しこれを武装解除してフランス領インドシナを完全に支配下に置いた(いわゆる明号作戦)。また、その後、日本本土でも、在日フランス人が警察に拘留され、軽井沢などに軟禁状態で置かれた。*22) 同上E216-1中の1945年8月21日内務大臣から外務大臣(アジア大洋州局)宛書簡。ごく少数の拘束者以外は地区の警察が日々、日本人の存否確認を行って監視を行うという形をとった。しかし、拘束されずとも、残留日本人は経済的に困窮し、日本の外務省は1945年6月、残留日本人(パリ80名、マルセイユ20名、ベルギー20名とされていた)を経済的困窮から救うため救恤金86,400スイスフランの支出を決裁したりもしている*17(ただし実際に残留日本人の手に渡ったかは不明)。また、第一次世界大戦後からパリに住んで、日本人芸術家を支援し、パリ国際大学都市の日本館建設に私費を投じるなど文化支援活動を行っていた薩摩治郎八もまた経済的困窮に陥る。彼については、1936年から駐日フランス大使も務めたアルベール・クラメールがフランス外務省に金銭的支援を要請*18、フランス外務省は1945年5月から薩摩に毎月資金を貸与している*19。また、当時のフランスのチュニジア総督シャルル・マストは、薩摩との長い友情関係に基づいて、フランス外務省に対し、彼が日本国籍を有していることによりフランス居住に不都合が生じることがないように要請している*20。1945年5月以降、警察による在留日本人拘束の第二波が始まる*21。8月時点の日本人45人のリストの内、マルセイユ領事館の3人も含め、監禁された日本人の人数は18人に上っている*22。パリ周辺では、監禁場所には、フランス占領時にユダヤ人移送のためドイツが設置した「ドランシー収容所」が主に使われていた。これに対し、薩摩は、監禁された者の釈放に向けフランス外務省に働きかけたりしているほか、何人かのフランス人も釈放に向けて同省に対し嘆願を行って ファイナンス 2019 Feb.3575年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》 SPOT

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