ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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た、同連隊の栄誉を讃えて町外れには「アメリカ第442歩兵連隊通り」と名付けられた通りがあり、さらにこの戦闘が縁で、ブリュイエールとハワイのホノルルが現在姉妹都市になっているというのはちょっとした余談である。さて、戦闘で疲弊していた第442連隊には休息の暇すら与えられなかった。まず、第442連隊の下にあった第100歩兵部隊他はブリュイエール東方の村ビフォンテヌ(Biffontaine)に向かう。現在では、75年前に戦闘があったことなど微塵も感じさせないのどかな農村であるが、この小さな集落の解放を巡っても激戦が繰り広げられる。10月22日から23日にかけて、ドイツ軍からこの村を「解放」するが、その後も3日にわたってドイツ軍から攻撃を受け続けたという。町の中央にある教会には、当時の銃弾の跡が残っており、また、その入口には「1944年10月23日 この教会の扉の左にて負傷した第100部隊の英雄の一人ヤング=O・キム大尉が捕えられたがチネン氏とともに逃げることに成功した」というプレートもかかっている。そして、10月25日には、疲れきった第442連隊は、彼らの名前を不朽のものとしつつも多大な犠牲を払うことになった「失われた大隊」救出に向かうことになる。現場はビフォンテヌ村の一集落レパクス(L’Epaxe)東方の小高い山中、尾根を進軍していた第141歩兵連隊第1大隊、通称テキサス大隊252名が、10月24日、小屋峠(Col des Huttes)から妖精岩(Roche des Fées)にかけて、ドイツ軍700名に包囲され、食糧・飲料も尽き、わずかな弾薬のみしか残っていないという危機的状況に陥ったのである*13。第442連隊の10月26日からの戦闘は凄惨そのものであった。深い霧に覆われ鬱蒼とした森の中、見えない敵からの攻撃にさらされつつ、局面を打開するために銃剣での突撃を繰り返してドイツ軍の塹壕を一つまた一つと奪い、5日目の30日、やっとテキサス大隊の解放に成功するのである。このときのテキサス大隊の残存兵力は211名、それを救うのに第442連隊が払った犠牲は死傷者863名という甚大なもので、後日、同連隊が直接所属していた第36師団の師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト少将が謝意を示すため同連隊を閲兵した*13) 一方で、包囲した側のドイツ軍も、自分達が、アメリカ軍の先頭を行くテキサス大隊の後方を遮断して包囲していたとは気づかなかったという話もある。とき、自分の目の前に整列した兵士の数が少ないのに驚き「連隊全体を見たいと頼んだはずだ」というと、失われた大隊救出作戦で第442連隊を率いたバージル・ミラー中佐が「連隊の残りは彼らだけです」と答えたという逸話も残っている。筆者は戦闘があったのとほぼ同じ季節の昨年11月3日から4日にかけて、ブリュイエール、ビフォンテヌそして失われた大隊の森を訪ねた。ブリュイエールの町から第442連隊通りを通って山に入っていくと、かなり行った森の中に第442連隊の顕彰碑がある。「各々の国家への忠誠は元々の人種によって変わることはないという歴史的事実をここで改めて確認したアメリカ合衆国陸軍第442連隊戦闘団諸君へ 祖先が日本人であるこのアメリカ人達は、1944年10月30日、ブリュイエールの戦闘の間、ドイツの防衛主力を突破し、敵に4日間にわたって包囲された第141歩兵大隊(ママ)を救出した」と記されている。失われた大隊の森は、11月ということもあり「Chasse en cours(狩猟中)」という看板が出ている中での訪問となった。発砲音も時々聞こえ、当時の兵士達に比べれば全然大したことはない、とは思いつつも、誤射されるのではないかとの若干の恐怖心を抱きながら山道を歩き、小屋峠を少し下った開けた場所にたどり着くと、猟銃を抱えた一団がちょうど猟を終えて休憩している。これで帰りは不安に怯えなくても済むと安心しながら、そこに建てられている顕彰碑を見ると、フランス語で「第38テキサス師団第100歩兵部隊と第ビフォンテヌ村レパクスから失われた大隊の森のある山を望む34 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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