ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
37/80

ここで話は再びアメリカの日系人部隊に戻る。日本の領事館が閉館となり、また、連合国軍に「解放」された直後の9月30日のマルセイユ、ここにイタリア前線を離れてナポリを発った日系人部隊第442連隊が上陸してきたのである。彼らの次なる任務は、未だドイツ軍占領下にあるフランス東部の「解放」であった。第442連隊は、ローヌ川を遡り、約800kmを貨車と徒歩で移動し、半月後の10月15日、フランス東部ヴォージュ山中の小さな町ブリュイエール(Bruyère)の「解放」作戦に投じられるのである。この町は、ナンシー(Nancy)、エピナル(Epinal)、ルミルモン(Remiremont)、サン=ディエ(Saint-Dié)そしておよそ一ヶ月前までヴィシーとパリから避難してきた日本国大使館員が滞在していたジェラールメからの道が交わるヴォージュ地方の交通の要衝である。また4つの小高い丘を背後に抱え、大づくりな風景の多いフランスにあって、何とは無しに箱庭的な日本の風景を想起させ、懐かしい気持ちにさせられる町でもある。しかし、そうした細かい地形だけに天然の要害ともなっていて、ドイツ軍が頑強に抵抗しており、そこで第442連隊に白羽の矢が立ったのである。町の入り口にあるA高地と名付けられたビュエモン(Buémont)の丘と町のすぐ裏手にあるB高地と名付けられたシャト(Château)の丘は、10月18日に第442連隊が激戦の末押さえる。翌19日、D高地と名付けられた町の東方のアヴィゾン(Avison)の丘も占領するが、この丘はドイツ軍に一度取り返された後、20日、第442連隊によって奪還される。また、この20日、C高地と名付けられた町の北方のポワンテ(Pointhaie)の丘も占領している。同時並行的に、ブリュイエールの街中でも激戦が繰り広げられていた。文字通りの市街戦で家を一軒ごとに解放していくという戦いだったため、多数の死傷者が出た。同連隊の属する第6軍集団司令官のジェイコブ・ディヴァース中将が「欧州での米軍の前進全体の中で、ブリュイエールは最もひどい戦闘の場として記憶されるだろう」と述べるくらいの激戦だったのだ。一方で、ブリュイエールの町民は、避難して籠っていた家々の地下室から出てきたときに、第442連隊の20歳未満の若くて背が小さい日系人兵士達を見て少年達がやって来たと勘違いしたという。しかし、日系人兵士たちは思いやりと敬意で町民達を扱い、命令に反して自分達への配給糧食を町民達に分け与え、町民たちは日系人兵士たちを「ジェントルマン」と名付けたという。ま1944年の状況(国境線は現在のもの)現在のブリュイエールの町並みアメリカ第442歩兵連隊通りの表示 ファイナンス 2019 Feb.3375年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》 SPOT

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る