ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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なくとも39名(パリ周辺含む)、日本の外務省によると80名*8とされているので、60名程度がパリ陥落直前にドイツに向けて避難したのではないかというのが、筆者による大胆な試算である。パリ陥落を前に、彼らのうち40名弱は、ドイツの軍用列車によってパリ東駅からベルリンに脱出した。しかし、連合国軍の快進撃の報に呼応した鉄道運転士のストライキで出発は丸一日遅れた8月14日となり*9、苦難の逃避行の末、一行はベルリンにたどり着いている。それ以外は、何組かで車に分乗し、ドイツに脱出している。ヴィシーでは政権の崩壊が間近に迫っていた。8月20日、ドイツ軍に強いられ、ヴィシー政権のペタン主席は意に反してヴィシーを後にし、フランス東部、ドイツ国境間近のベルフォール(Belfort)に向かう。ヴィシー政権の事実上の終焉である。三谷隆信駐仏日本国大使を始めとするヴィシーの日本国大使館員やその家族もこれに従って同日、ヴィシーを発ち、23日にベルフォールに到着している。ただ、収容能力の問題があり三谷大使と一部館員以外は、ベルフォール北方、ヴォージュ山中のジェラールメ(Gérardmer)に移り、そこでパリの領事館から避難してきた一部館員と落ち合う。さらに、ベルフォールにも連合国軍が迫ったので、9月8日、ペタン元主席は故国フランスを脱しドイツ南西部のジグマリンゲン(Sigmaringen)に移り、三谷大使ほか日本国大使館員も10日にジグマリンゲンに移るのである。さて、このほかにほとんど知られていないもう一つの逃避行がある。在マルセイユ領事館の逃避行である。現在のマルセイユ総領事館のホームページを見ると、1944年8月18日、当時の高和博領事の引揚げとともに領事館が閉館となった旨が書かれている*10。これは、8月15日にフランス南東部のカンヌ(Cannes)からサントロペ(Saint-Tropez)一帯に連合国軍が上陸し、マルセイユに迫ってきたことが背景にある。マ*8) フランス側が1945年8月21日に作成した日本国籍保有者リスト(フランス外務省外交史料館資料E216-1中の1945年8月21日内務大臣から外務大臣(アジア大洋州局)宛書簡)にはフランス全土で45名(パリ周辺を含めパリで39名)が掲載されている一方、後述する1945年6月の残留日本人向け救恤金支出決裁書(外務省外交史料館蔵)によると、パリに80名、マルセイユに20名が残留していたとある。*9) ちなみに出発予定日の8月13日に、列車での脱出組にはパリの日本食料理屋兼ホテル「牡丹屋」から弁当の差入れがあったとのこと。現在筆者が居住するパッシー地区のモザール通りにあったというので気になっていたのだが、前掲「両大戦間の日仏文化交流」(ゆまに書房)42頁に掲載されている在留日本人名簿の写真に牡丹屋の経営者の住所が124 Avenue Mozart(16区)と出ており、ここに牡丹屋があったのである。*10) 日本国在マルセイユ総領事館ホームページ「Jean-Pierre BOEUF氏の覚書き」の「(3) 第二次世界大戦前後のマルセイユにおける日本」。*11) フランス外務省外交史料館の資料E184-1中の1944年9月12日付高和領事からピレネ=オリアンタル県知事宛書簡ではHôtel de la Paixに移されたとある。また、このホテルは宿泊料の請求を同県に対して行って断られ、赤十字国際委員会に陳情した結果、同委員会からフランス外務省に1945年4月25日付で書簡が発出されているが、そこにはホテルの名称・住所がHôtel Restaurant de la Paix, 1 rue Quéya à Perpignanと書かれている。*12) フランス外務省外交史料館の資料E184-1中の1944年12月27日軍事保安局司令官宛メモ。ルセイユの「解放」は結局8月28日となったが、それに先立ち、まさに8月18日、高和領事ほか2名が中立国であったスペイン目指して南西に車を走らせるも、8月19日、スペイン国境すぐ手前の町ペルピニャン(Perpignan)で戦闘に遭い立ち往生してしまう。ペルピニャンは上陸した連合国軍からかなり遠い距離にあったものの、同日、ドイツ軍が撤退を始め、そこにレジスタンスや共産党員が蜂起したのである。ペルピニャンの警察内の分子は武器をレジスタンスらに与えて支援したのだが、ちょうどその時にマルセイユ領事館一行はペルピニャンの警察に保護と援助を求め、説明もないまま拘束されてしまうのである。翌20日朝にはペルピニャンが「解放」されるのであるが、一行は、21日、解放前にドイツ軍が牢獄として用い、解放後は対独協力者の監禁に用いられたペルピニャン要塞に移され、9月9日にはホテル*11に移され長期にわたり軟禁状態に置かれたのである*12。高和領事達が軟禁されたホテル跡(ダニエル・タバール氏提供)32 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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