ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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フランスの北半分と西海岸はドイツが直接占領、残りはヴィシー政権(État français、エタ・フランセ)が統治していた。この状況下、日本は、フランス領インドシナのうち中国国境周辺に限った日本軍の駐留をハノイの現地フランス軍及びヴィシー政権に打診。フランス側は8月30日にこれに同意、9月23日に日本軍はトンキン州に進駐する*4。また、フランスの敗北を見て、日本は、ドイツとの同盟に活路を見出す。日本には少なからず慎重派も居たようであるが、9月27日、日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟条約に署名する。いわゆる日独伊三国軍事同盟である。ヴィシー政権は日本にとって今や同盟国のドイツの影響下にある政府となり、日本は、1941年7月にフランス領インドシナの共同防衛のためその全域への日本軍進駐を要求、孤立無援のヴィシー政権はこの要求を受諾する。このいわゆる「南部仏印進駐」が、アメリカ・イギリスの日本への石油禁輸などの厳しい経済制裁の引き金となり、1941年12月の太平洋戦争開戦へとつながっていく。ところで、1951年のアメリカ映画「GO FOR BROKE!」*5をご存じだろうか。第二次世界大戦中に編成され、米軍内で最初は好奇の目、ともすれば差別的な目で見られていた頼りないアメリカの日系人部隊が、祖国アメリカへの忠誠を尽くし欧州戦線で果敢に戦い抜くという話である。アメリカは、1941年12月の太平洋戦争開戦後、強制収容所への収容など日系人を厳しく扱った。しかし、1942年6月、米国は、日系人収容への批判をかわし日系人を自国民として扱うためハワイ中心の日系人部隊である第100歩兵部隊を編成する*6。同部隊は1943年8月北アフリカに上陸、9月にはイタリアに上陸しローマを目指す。実は、イタリアは9月初め、連合国に降伏したのだが、その動きを察知したドイツ軍に北半分を占領されており、第100歩兵部隊はドイツ軍の頑強な抵抗に遭って激しい戦闘を余儀なくされていた。一方で、ハワイ出身日系人を中心にアメリカ本土出身日系人も加わった第442*4) これを「北部仏印進駐」という名で呼ぶため、あたかもフランス領インドシナの北半分を日本が占領したかのようなイメージがあるが、実際は日中戦争の作戦遂行を念頭に置いて、最北部にあるトンキン州(ハノイ周辺)の日本軍の通行許可、4飛行場の使用許可とそれに付随する日本軍(上限6千名)の駐留等を認めたものであり、フランス領インドシナ全域の日仏共同防衛を目的とした翌年の「南部仏印進駐」とは目的も規模もかなり異なる。*5) これから話に出てくるアメリカ第442連隊のモットーで「当たって砕けろ」の意。元々は、賭け事に関するハワイの俗語的表現で「有り金を全部賭ける」の意味だったという。*6) 昨年は日仏修好通商条約締結160周年であったが、1868年に約150名の日本人移民がハワイに移住したハワイ日系移民150周年でもあった。*7) 和田桂子・松崎碩子・和田博文編「両大戦間の日仏文化交流」(ゆまに書房)42頁。連隊も編成され、1944年5月末にイタリアに到着。6月、第100歩兵部隊は第442連隊の傘下に置かれる。この第442連隊は、引き続き厳しい戦闘を行いつつ、7月末には斜塔で有名なピサの辺りまで進む。さて、話はここで約二ヶ月弱遡る。舞台は、1944年6月6日、D-Dayと呼ばれるこの日のフランス北西部ノルマンディの海岸。アメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍そしてイギリスに亡命していたフランス人部隊などからなる連合国軍が午前6時半、上陸作戦を始める。筆者は20年前、上陸作戦の舞台の一つであるオマハビーチのドイツ軍要塞跡を見たことがあるが、浜の後ろの崖の上に極めて頑強に作られていて、遮蔽物のない遠浅の浜を上から一望でき、上陸した連合国軍が破滅的な状況に陥ったことがすぐに想像できたし、一方で、人数・物量で劣るドイツ軍が薄暗い要塞内で絶望的な気持ちで反撃を行ったことも頭に浮かび、その場から逃げ出したい気分になったのをよく覚えている。最終的に連合国軍の手に落ちたノルマンディの海岸からは兵員・物資が大量に陸揚げされ、ノルマンディ上陸作戦から約1ヶ月後の7月7日、ノルマンディの中心都市カン(Caen)が連合国軍の手に落ちるも、7月末までに連合国軍が占領できたのは実はノルマンディの一部にとどまる。しかし、8月初旬、ノルマンディの南側に回り込むことに成功した連合国軍は、パリへの進撃のスピードを速め、パリ陥落は時間の問題になってくる。そのパリに居た日本人は何人くらいであっただろうか。第二次世界大戦開戦により日本に帰国し相当減ったとはいえ1940年段階でパリ在住日本人は160人を数えていたといい、また、1942年に戦前の在仏日本人会が作成した名簿にはドイツが占領していた地域を中心に123名の名前があるという*7。日本国大使館関係者としてヴィシーに十数名が居たと思われることを考慮すると、幅はあるが100人強から140人強の日本人がパリに居たのではないか。そして、パリ解放後もパリに残留した日本人はフランス外務省によると少 ファイナンス 2019 Feb.3175年前、戦火のフランスで交錯した二つの《日本》 SPOT

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