ファイナンス 2019年2月号 Vol.54 No.11
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎フランスの保養地ビアリッツでG7サミットが行われているであろう2019年8月25日。この日は、第二次世界大戦中の1944年、ドイツ占領下のパリが連合国軍に解放されてからちょうど75年目の節目に当たる。今もフランス人の心を陰に陽に揺さぶる、この《ラ・リベラスィオン》(解放)*1、実は、戦争に翻弄された二つの《日本》の交錯を、1944年、この異国フランスの地に描き出してもいる。話は数年遡る。1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦は、1940年5月10日、ドイツ軍のベルギー・オランダ・ルクセンブルク攻撃で重大な局面に陥る。マジノ線を迂回し進撃を続けるドイツ軍。6月10日、フランス政府はついにパリからトゥールに移動、無防備都市を宣言したパリは、6月14日、ドイツ軍の手に陥ちる。ヒトラーは、6月21日、1918年11月に第一次世界大戦の休戦協定が結ばれたパリ北東のコンピエーニュの森に現れる。フランスにとって屈辱的な休戦協定の調印をその翌日に行わせるため、22年前にドイツ敗北の休戦協定を調印した同じ鉄道客車が、記念保存館を破壊して引っ張り出され、当時の調印場所と同じ場所に据えられていた。ドイツがフランスに侵攻したとき、日本とドイツは共産主義に対する防共協定を結んでいたのみ。まだ同盟と言える関係にはない*2。だから、フランス政府がパリから*1) パリの街を歩いていると、そこかしこに、レジスタンス、自由フランスの兵士そして一般市民について「(氏名)、1944年8月何日、ここでパリ解放のために散りぬ(Ici est tombé pour la Libération de Paris le XX août 1944《Prénom》《Nom》」といったプレートが見られる。一方で、ドイツ軍の占領中、ドイツ軍やヴィシー政権に協力したフランス人は裏切り者の意を込めてCollaborateur(協力者)とか略してコラボとかと呼ばれ、解放後、徹底的に糾弾されている。*2) ちなみに、第二次世界大戦前のフランスにおける日仏関係であるが、1931年の満州事変以降、フランスでは日本に対し英米ほど厳しい見方はされず、日本との関係強化の動きもあったとされる(和田桂子・松崎碩子・和田博文編「満鉄と日仏文化交流誌『フランス・ジャポン』」(ゆまに書房)5頁)。一方で、日本に批判的な見方もあり、1933年に日本が国際連盟を脱退し、国際的孤立の懸念が高まると、日仏関係親善のため、1934年、(1)東京結成の日仏同志会のパリ支部と南満州鉄道パリ事務所の共同仏語宣伝誌「フランス・ジャポン」が創刊され1940年4月まで発刊が続けられたり、(2)在仏日本人が発起人となり、明治政府に招聘され日本近代法学の礎を築いたギュスタヴ=エミル・ボアソナード=デュ=フォンタラビ博士の胸像がパリ大学パンテオン校舎(現パリ第一大学・パリ第二大学)に立てられたりもした(法政大学ホームページ「ボアソナード博士 胸像物語」)。筆者は20年前、パリ第二大学留学時に、ボアソナードの像を発見して感動したのだが、像に「恩義を受けた日本人よりボアソナード教授に敬意を表す」と書かれているのは、まさに日仏関係親善の希求が背景にあってのことなのである。*3) ここまでの日本国大使館の移動については、外務省外交史料館「第二次歐洲戰爭関係一件/在留邦人保護避難及引揚関係 第一巻」の「巴里立退の前後」に詳しい。トゥールに移った翌日の6月11日、パリの日本国大使館も、邦人保護のための領事業務とその担当者をパリに残しつつ、ドイツ軍に追われる形でトゥール近郊のヴェルヌ(Vernou-sur-Brenne)に移る。6月16日にはボルドー近郊のバルサック(Barsac)に移るがその途中、一行はポワチエ(Poitiers)でドイツ軍機の爆撃にも遭っている。そして、独仏休戦協定調印後の6月30日に、オーベルニュの温泉保養地ラ・ブールブル(La Bourboule)に、7月6日には政権が樹立されたヴィシーの隣町キュセ(Cusset)に、そして、8月24日にヴィシー(Vichy)市内に移り、やっと腰を落ち着けるのである*3。75年前、戦火のフランスで 交錯した二つの《日本》1940年の状況(国境線は現在のもの)30 ファイナンス 2019 Feb.SPOT

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