ファイナンス 2019年1月号 Vol.54 No.10
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私の週末料理日記その2912月△日土曜日新々連日の深酒に加えて、昨晩ソファーで転寝したのが悪かったのか、今朝は喉が痛くて体がだるい。内臓脂肪を減らせと医師から注意を受けている身ではあるが、風邪を治すために精をつけようと、朝食に卵3個のベーコンエッグと野菜のガーリック炒め、そして分厚くバターをのせたトーストを3枚、即席ポタージュスープとトマトジュースで流し込んだのだが、どうにも元気が出ない。寝床に戻って、「ミネルヴァ日本評伝選 北畠親房」(岡野友彦著、ミネルヴァ書房)を読む。過日尊敬する先輩のお供で、吉野の金峯山寺に参詣した折に、北条の軍勢に攻められた大おおとうのみや塔宮護もりよし良親王が落城前に最後の酒宴を催した跡だという四本桜や、村上義光が護良親王の身代わりとして楼上で自害したという二天門跡を見学した。また室生寺では、北畠親房の墓と伝えられるものを見た。それ以来何となく気分は南北朝というときに、たまたま先週図書館の書架でこの本を見つけて借り出したのである。素人向けの啓蒙書としてはかなり学術的な内容で、私には荷が重い書ではあるが、40歳を過ぎてから陸奥に下向し、以来、伊勢、常陸、吉野と苦難の転戦をし、ついに賀あのう名生に客死する親房の人生を辿るのはなかなか興深いことであった。そして、南北朝期に関して、四十数年来、史実と思い込んでいたことが、実は誤解ということも少なくなかった。北畠親房は、後醍醐天皇即位後その信任を得てその皇子世よよし良親王の傅もり役となり、また権ごん大だいなごん納言に淳じゅんないん和院、奨学院両別べっ当とうを兼ね、源げんじの氏長ちょうじゃ者となるなど公家として栄進したが、世良親王夭折に落胆して38歳で出家している。後醍醐天皇が倒幕を企て一旦隠岐に流される元弘の変には直接関わっていないとされる。その後護良親王、楠木正成、赤松円心らの活躍で幕府方が苦戦する中、後醍醐帝が隠岐を脱出して、足利尊氏や新田義貞が後醍醐天皇方に加担するに至って鎌倉幕府は滅亡する。この建武の新政当時、親房は政権中枢から一歩遠い位置に置かれていた。従来これを親房が倒幕運動に参加しなかった故と解する説が大方であったところ、著者は当時足利尊氏も護良親王も政権中枢から遠ざけられていたことを指摘し、親房の当時の立場は、尊氏、護良親王と後醍醐帝三者の微妙な関係から考えるべきとする。本書によれば、鎌倉幕府滅亡直後の政局は、後醍醐天皇とその寵姫阿あの野廉れん子し・千ちくさ種忠ただ顕あき・名な和わ長なが年としらの天皇側近一派と、護良親王・赤松円心ら畿内近国で終始一貫倒幕運動を続けてきた一派、そして足利尊氏・直ただ義よし兄弟を中心とする旧御家人勢一派に分かれていて、三すくみの状態にあった。そして著者は、親房は護良親王と従兄弟(または義兄弟あるいはその両方)であったとし、親房は護良親王派の中心にいたとする。親王派は、建武政権ではあまり重用されず、功績に比して小さな恩賞しか受けられなかった。親房もまたこれといった要職に就くことなく、親王が主唱した陸奥将軍府(陸奥小幕府)構想の下に、元弘3年10月嫡男顕家とともに義のりよし良親王を報じて陸むつの奥国くにへ下向した。政権側が護良親王派を京都から遠ざけた人事でもあろう。その後、後醍醐天皇と護良親王の対立は一段と深まり、親王は天皇派の名和長年に逮捕され、尊氏に引き渡されて鎌倉に送られ、のち殺害された。著者は梅松論から「武家(尊氏)よりも君(後醍醐)の恨めしく渡らせ給ふ」という護良親王の独白を引いている。ところで、尊氏を警戒する護良親王は、幕府政治自体は評価しており、自ら征夷大将軍になることを望み、陸奥小幕府も構想した。本書によれば、実は親房も神皇正統記の中で「武士たる輩、言へば数代の朝敵なり」63 ファイナンス 2019 Jan.連 載 ■ 私の週末料理日記

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