ファイナンス 2019年1月号 Vol.54 No.10
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(注) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。なお、文中の日付は旧暦は用いず、すべて太陽暦を用いています。鮫島尚信は1845年、薩摩藩藩医の子として鹿児島に生まれ、1861年から長崎で医学及び英語を学ぶ。1865年からは薩摩藩の第一次留学生としてロンドン大学法文学部に学び、1867年には渡米し働きながら学ぶが、1868年日本に帰国、明治政府に勤務する。1870年8月に外務大丞となり、10月に欧州派遣を命じられ、11月に小弁務使(代理公使・Chargé d’affaireに相当)に任じられてイギリス・フランス・ドイツ北部連邦を兼轄することが命じられる。鮫島はおそらく1871年1月にフランスに着いて普仏戦争で包囲されたパリを避け、彼の書簡によれば1月27日にフランス国防政府のあったボルドーにてジュル・ファヴル外務大臣に信任状を渡しているという*20。しかし、同大臣は翌1月28日署名の休戦協定交渉のためパリ及びベルサイユに滞在しており*21、本当に大臣本人に信任状を渡したのかは今後の研究が待たれる。続いてイギリス・ドイツに渡り、6月、パリコミューン終結後のパリに戻りその後代理公使館を開設、1872年6月に中弁務史(弁理公使・Ministre résidentに相当)に昇進し同年10月1日に信任状を提出*22、1873年11月22日、特命全権公使に任じられ、1874年6月10日、ベルサイユにてパトリス・ド=マクマオン大統領に信任状を捧呈している*23。同年4月に病気のため帰朝願いの承認を受けた鮫島は、同年12月にフランスを発ち日本に帰国、1875年11月に外務大輔となり、1878年1月にフランス兼ベルギーの特命全権公使に任じられ、1880年3月にはベルギー兼任を解かれるもポルトガル・スペイン兼任を命じられる。そして、同年12月4日パリにて35年の短い生涯を閉じるのである。彼は、外国政府に信任状を提出した日本政府初めての外交官であり、日仏条約第2条に定める初めての日本のフランス常駐外交官でもある。彼の墓は、東京の青山墓地のほか、パリのモンパルナス墓地にもあるが、彼の初代外交官としての功績を称えるとともに、日仏友好160周年と明治維新150周年を記念するため、フランス最南部ペルピニャン近郊に住み、「明治と共和国」(République & Meiji)という仏日友好団体を主催するダニエル・タバール(Daniel TABART)氏より、モンパルナスの鮫島尚信の墓に顕彰プレートを設置したいとの申出が在仏日本国大使館に対してなされた。そこで、11月27日(火)、タバール氏夫妻、木寺駐仏日本国大使以下大使館関係者が参加して、顕彰プレートの設置が行われた。パリの日本人社会でも現在ほとんど注目されていない鮫島尚信の墓を改めて日本と結びつけてくれたフランス人がいるということに頭が下がる思いであった。明治期の日本とフランスの関係について独学で研究を続け、自費で顕彰プレートの設置まで行って頂いたタバール氏に改めて感謝の意を表したい。鮫島尚信公使の墓前にて(コラムその2)鮫島尚信初代駐仏日本公使の墓と顕彰プレートの設置*19) 仏文では、墓正面にはFAMILLES ROCHES LALIMAN ET QUERRYと刻まれ、墓右側面にはLEON ROCHES MINISTRE PLÉNIPOTENTIAIRE COMMANDEUR DE LA LÉGION D’HONNEUR DÉCÉDÉ LE 23 JUIN 1900 PRIEZ POUR LUIと刻まれている。ちなみに、左側面には、LEON QUERRY CONSUL DE FRANCE 1868 – 1943と刻まれている。なお、このレオン・ケリについて書いた文献はなかなか見つからないが、父親が外交官、テヘラン生まれで、カイロのフランス外交事務所に通弁官として勤務していたことがあるようである。*20) 鮫島文書研究会「鮫島尚信在欧外交書簡録」7頁及び246頁「フランス国外務大臣閣下」宛書簡。なお、仏外務省「外交団員一覧(1872年3月7日)」10頁(Liste de MM. les membres du Corps diplomatique(7 mars 1872)(Ministère des affaires étrangères))にも手交先の記述はないものの同じ日付が載っている。*21) ジュル・ファヴル著「1870年10月31日から1871年1月28日までの国防政府」第二部405~408頁(《Gouvernement de la Défense nationale du 31 octobre 1870 au 28 janvier 1871 Deuxième partie》 par Jules Favre)。*22) 仏外務省「外交団員一覧(1873年12月10日)」10頁(Liste de MM. les membres du Corps diplomatique(10 décembre 1872)(Ministère des affaires étrangères))*23) 1874年6月11日付フランス共和国官報1頁(Journal ofciel de la République Française du 11 juin 1874)。「共和国大統領は、二時に鮫島尚信を迎え、彼は日本国天皇陛下の特命全権公使としての信任状を提出した。公使及び公使館員は、謁見儀典官により高官人用馬車にて謁見の場に通され、同じ作法にて日本公使館宿舎に戻った。」及びケリ家」と刻まれ、右側面には「レオン・ロシュ 全権公使 レジオンドヌール勲章司令官位 1900年6月23日に死す 彼のために祈りを」*19と刻まれている。 ファイナンス 2019 Jan.20日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(8) SPOT

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