ファイナンス 2019年1月号 Vol.54 No.10
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キ外務大臣宛の書簡の追伸に、批准書交換式の後は、将軍及び幕府の様々な人々への贈物の分類に勤しんでいる旨を記載しており、前年の条約締結時のグロ男爵の反省を生かしてか、相当量の贈物をフランスから持参したようである。そして、日本側に残る彼の書簡*15に示された贈物の目録によると、贈物は、フランス皇帝自ら新たに品定めをした大砲類(後日便で到着予定)、ナポレオン一世とナポレオン三世のブロンズ像、フランス製の日本国旗、赤ラシャに金を縫い付けたフ*15) 外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國御書翰二」九番。*16) Cimetière de la Chartreuse。ボルドーの中心地から西に1kmくらいの場所にある。*17) 「開港のひろば」横浜開港資料館館報第21号(昭和62年10月31日付)7頁、中山裕史著「特別寄稿『レオン・ロッシュの墓をたずねて』」。*18) 矢田部厚彦著「敗北の外交官ロッシュ」(白水社)(2014年)384頁。ランス皇帝のものと同じ馬の鞍、懐中時計・小時計及び測量に使う道具の一箱、金銀銅等にて鋳造されたフランス通用硬貨の箱一箱、リボルバー拳銃大小二箱、花模様の毛氈一枚、色付き・色なしの水晶・ビードロの杯・瓶等の類、衣装に拵えるべきメリノス種の綿羊の毛布の軽いラシャ等の類、書画用紙類、良き匂いのもの(おそらく香水と思われる)の類、貼り付け紙の類、フランスにて製造された本物のシャンパーニュとなっている。ミシェル=ジュル=マリ=レオン・ロシュ第2代駐日フランス公使は、1809年9月27日グルノーブル生まれ、1828年、グルノーブル大学に入学して6ヶ月法律を学ぶも退学、イタリアを旅行した後、1832年6月に父が農園経営をしていたアルジェリアに渡り、アラビア語を学んだ後フランスのアルジェリア派遣軍の通訳官となり、1837年には、敵対した後フランスと休戦協定を結んでいたアルジェリアのイスラム勢力指導者アブデルカデルの下に向かい、両者が再び戦争を開始する1839年まで彼の下に留まり、その後アルジェリア派遣軍に戻る。1841年に職務でチュニスに向かい、その後、カイロ、メッカ、カイロを経てローマに向かうも、彼に目をかけていたアルジェリア派遣軍のトマ=ロベール・ビュジョ総司令官に呼び戻され、1842年アルジェに戻る。1845年にはモロッコ・アルジェリア国境交渉に加わり、モロッコの外務大臣、さらにはモロッコの皇帝を説得して国境画定問題を解決する。1846年にはビュジョ元帥の推薦でモロッコの仏タンジェ総領事館書記官となり、外交官のキャリアを歩むことになる。その後、1849年トリエステ領事、1852年トリポリ総領事、1855年チュニス総領事となる。このようにアラブを中心にキャリアを送ってきたロシュは、デュシェヌ=ド=ベルクールの後任として、1863年、江戸総領事兼代理公使に任命され1864年に着任、米英蘭仏4ヶ国の共同協定に参加し、長州藩が封鎖している下関への攻撃を決定する。同年末、幕府が造船所・製鉄所の建設に必要な人的・物的援助をロシュに依頼したころから、ロシュの幕府支援の立場が鮮明となり、横須賀製鉄所や横浜仏語伝習所の設立支援、パリ万博への日本の参加推薦、フランス軍事顧問団の日本招聘などを行うも、幕府軍は新政府軍に敗北、彼は1868年6月に日本から帰国する。晩年はボルドー近郊に居住し、1900年に死去する。彼の墓は、中山裕史氏がボルドーのシャルトルズ墓地*16にて発見し1987年に横浜開港資料館館報にて報告がなされたが*17、一方で、元駐仏日本大使の矢田部厚彦氏は、その著書の中で、2010年秋に同墓地を訪問した際はついに発見できず、後日、墓地管理事務所から墓は現存しないとの説明を受け、その最後の姿を留めるのは中山氏撮影の写真が唯一のものということになる、と記されていた*18。日頃から諦めの悪い私は、ボルドーに行った際、それでもとりあえず探してみようと思い、同墓地を訪問し、墓地管理事務所に聞いたところ、5列92番地(5ème Série, n°92)に現存するはず、ということだった。地図をもらって探したところ、墓は案外簡単に見つかった。サン・ブリュノ教会側の大きな門から入って1本目の道を左に、さらに1本目の道を右に行き、大きな通りを2本通り越して右側、並木の手前の場所である。中山氏の報告通り、ロシュ公使はその孫娘メリアムの夫で外交官のレオン・ケリと同じ墓に眠っており、墓の正面には、「ロシュ家、ラリマン家(コラムその1)ロシュ第2代駐日フランス公使の墓地探しロシュ公使の墓19 ファイナンス 2019 Jan.SPOT

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