ファイナンス 2019年1月号 Vol.54 No.10
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は「日本大君(Taïcoun du Japon)」に置き換えられており(写真参照)、また、条約締結時にグロ男爵が日本側に渡した条約原本の仏文でも削り取られた痕に「大君」の語が書かれているのに気づく。ただし、彼は、それがフランス人の筆跡に見え*10、また、このようなときに場にそぐわない見解を持ち出すべきではないと思い、異議を申し立てていない。デュシェヌ=ド=ベルクールは、日本人にとって、大君は正確に言うと皇帝ではなく、我々は大君のことを「世俗的皇帝」と呼んでいるが日本語ではむしろ「大将軍」であり「宗教的皇帝」又は「ミカド」のみに許されている「皇帝」の称号を保持していない、と解説している。その上で、公式文書で日本の元首を大君と名指ししているのは、国家権力はこの君主によってのみ体現されているからであると説いている。(10)批准書の交換式を終えて交換式は3時間を要して終了し、その後、フランス側の行列は、同じような人波を横切って戻ることになった。デュ・シェイラ号の乗組員・士官は同号に戻り、夕方5時に、江戸湾から約50メートル(ママ)*11の高さの丘にある海に面したデュシェヌ=ド=ベルクールの住居、すなわち済海寺のフランス総領事館に掲げられた旗に対して礼砲が放たれる。そして、ロシアのフリゲート艦アスコルドとイギリスのコルベット艦ハイフライヤーからもフランス国旗に対して21発*10) ここで分かるのは、デュシェヌ=ド=ベルクールが、フランスの誰かが書き換えたのだろうからと思って異議を申し立てなかったということであるが、現実にはフランスの誰かが条約締結と条約批准の間に来て条約原本を書き換えたとは考えづらく、幕府側で書き換えたのであろう。したがって、彼は、単に異議申立てをしなかったことの言い訳として、こう書いたのではないかと思うが、確かに「大君」は日英条約ではTycoon、日蘭条約ではTaikoenの綴りで表記されている一方で、日本側にあった日仏条約原本は書き換えられた後、フランス語の表記法を用いてTaïcounと綴られていた(と思われる)ので、フランス人の筆跡と言い得るものだったのではないか、とは思われる。*11) 済海寺の実際の標高は27~28m程度。の礼砲が放たれた。デュシェヌ=ド=ベルクールが済海寺に戻ると、20人分以上はあろうかというとても豪華な日本の食事を見つけた。日本の役人達は「貴殿が外務御殿にて食事をとりたくなさそうであったので御老中が食事を届けてくれた」と語った。デュシェヌ=ド=ベルクールは、外務大臣宛の書簡の中で、料理された食事の住居までのお届けという習慣は、欧州の習慣と対局をなし、日本の礼儀の中には存在するものの、自分達は外国の代表に対してその習慣を適用するのはやめてもらおうとしていると解説している。彼は、元来、食事のお届けを丁寧に断っていたところ、今回は老中が交換式の日にもてなそうと思っていたのではないかと気づき、事前又は御殿への入場時点でこの有難い意図をはっきり知らせてくれず残念だった旨を老中に伝えることを決め、今回の機会に起こった出来事について丁寧に話そうとしていると外務大臣宛の書簡に記している。ここで面白いのは、日本と欧州の食事に対する文化の違いがこの食事のお届けの一件で明らかになっていることである。日本では、江戸時代から出前の文化があり、食事を家に届けるということに関して全く抵抗感がなかったと思われる。一方、フランスでは、いまでこそ、料理の宅配サービスが存在するが、元々、料理は食事をする場所で料理人が作るものであり、そのためデュシュヌ=ド=ベルクールは日本の自分の宿舎に料理が届けられているのに驚いたのである。左が締結時の条約の仏文題名、右が日本からの批准書の中の条約の仏文題名。終わりから3つ目の単語を見ると締結時にEmpereur(皇帝)となっていたところを日本側が批准書の中でTaïcoun(大君)と書き換えたことが分かる。なお、右側は森山の手による毛筆の墨書の筆致。17 ファイナンス 2019 Jan.SPOT

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