ファイナンス 2019年1月号 Vol.54 No.10
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎今回は、前回に続き、フランス外務省外交史料館所蔵のデュシェヌ=ド=ベルクールの書簡*1(原文は書き起こして本文末に掲載)と日本側資料所収の彼の書簡*2から、批准書交換式の模様を再現してみたい。6日仏修好通商条約の発効と批准(8)条約批准書・条約の審査批准書・条約の審査にフランス海軍デュ・シェイラ号の士官が同席できないことがはっきりした後、皆が席に座り、式が始まった。老中とデュシェヌ=ド=ベルクールとの間の机に、外国奉行の酒井忠行が日本側の批准書を含む条約を置く。フランス総領事館のメルロ書記官が同様に皇帝ナポレオン三世の批准書を含む条約を置き、僧衣を着たジラール神父が日本側の条約・批准書の審査を補佐するため机に寄ってくる*3。日本側全権の酒井とデュシェヌ=ド=ベルクールは、条約の方に行き、互いに元首の署名と大臣(又は老中)の署名を見せる。デュシェヌ=ド=ベルクールは、日本の条約について印の押された批准書、すなわち、間部、脇坂の両老中が署名し、将軍が署名して印が押された、両国間で締結された条約を交換する旨を記した前書きが、彼がイギリスのオールコックのところで見た日英条約の批准書と全く一致することを確認する。通訳の森山は、この形式は、日本帝国の批准の方式として不変のものであると説明する。ここで、デュシェヌ=ド=ベルクールは森山にこの将軍の署名は自署かどうか尋ねると、森山は、将軍が(老中の)会議に与えた命令の正確な複製であると答え、それによりデュシェヌ=ド=ベルクールは、これはむしろ自署という*1) フランス外務省外交史料館所蔵資料のマイクロフィルム中の1859年9月30日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡。*2) 外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻475~477頁及び外務省外交史料館所蔵「通信全覧初編佛國御書翰一」七番所収の1859年9月24日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発間部・脇坂両老中宛のカタカナ文の書簡。*3) デュシェヌ=ド=ベルクールは、この書簡に、「(ジラール神父の)この宗教的な衣服は日本側に何の感情も惹起しなかったようだ」「一方で自分の側は、日本のカトリックの自由の再導入がフランス国家の外交によって高らかに達成される儀式に、現在総領事館の一部をなす司祭が(僧衣でない服で)仮装することなしに出席してほしいと願っていた」と書いており、当時の第二帝政のフランスが外交を含め国家としてカトリックを後押ししていたことや、デュシェヌ=ド=ベルクールが日仏条約第4条に規定する日本におけるフランス人の信教の自由をその象徴として位置づけていたことが分かる。より複写であると結論づける。そして、彼は、(批准書上の)老中の署名も、これまで老中からもらった書簡の署名に似ているものの、同じく複写かもしれないと考え、また、日本における書の重要性によって、ときに器用で経験のある書写人を用いることが認められているとの理解に至っている。ところで、将軍の名前が自署でないことは条約上、本当に問題がないのか。気になった筆者は改めて批准について定める日仏条約第22条を見てみた。まず、仏文では「フランス人民皇帝陛下及び日本皇帝陛下によって批准されるものとし」と書かれ、形式についての記述はない。一方、漢字かな混じり文では「佛蘭西皇帝自ら名を記し印を押し日本大君奥印して」とありカタカナ文もほぼ同じ記述になっている。すなわち、和文では、フランス皇帝は自ら署名押印することが規定される一方、将軍は押印することは書かれているものの署名するとは規定していない。さらに最終的な解釈の正文となる蘭文では、「フランス皇帝陛下の署名(handteekening)と印の下、及び日本大君陛下の名前(naam)と印の下」と書かれ、フランス皇帝は「署名」を行うが将軍には「署名」が求められていない。すなわち日仏条約上、少なくとも日本側が用意した和文と蘭文では、将軍は批准書に自署しないことが前提となっていたのである。さて、実際の日本側からフランス側に渡された批准書はフランス外務省外交史料館に保存されているが(写真参照)、その内容は、○前書きとして「右條約は帝國日本においては水野筑後守永井玄蕃頭井上信濃守堀織部正岩瀬肥後守野々日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(8)~日仏外交・通商交渉の草創期~13 ファイナンス 2019 Jan.SPOT

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