ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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に前もって日本側の批准書を見せてもらっており、それに照らし日本側の事前説明は十分なものと思われたので、その形式で批准書の交換を行うことに同意し、かつ、批准書の交換を9月22日に行うことで日仏間で合意する。オールコックからは、イギリス同様に江戸城内に護衛が入る許可を得る難しさを知らされていたが、デュシェヌ=ド=ベルクールは、(批准書交換の行われる江戸城内の)御殿にフランス帝国海軍の士官からなる大行列を伴わせることを予告する。また、書記官の同席も求め、自分の要求は認められたと記している。式次第は、イギリスの批准書交換の際に採用されたものをフランスの式典でも用いることが合意された。なお、デュシェヌ=ド=ベルクールは、この面会の際、条約について、その内容を公表し地方の当局に送付し、かつ、本屋でも販売して一般に周知するよう求めている。(7) 条約批准書の交換式に向かうフランス 使節団1859年9月22日、江戸の「外務御殿」にて、日仏条約の批准書の交換が外国掛老中の間部・脇坂とデュシェヌ=ド=ベルクールとの間で、9月18日の面会時の打ち合わせ通りに行われた。この模様は、○フランス外務省外交史料館に保存されている同年9月30日付のデュシェヌ=ド=ベルクール発ヴァレヴスキ外務大臣宛の書簡*32に詳しく記録されており、さらに、○日本側の幕末維新外交史料集成第4巻所収の同年9月24日付*33のデュシェヌ=ド=ベルクール発両老中宛のカタカナ文の書簡にも垣間見ることができるので、以下、この日仏両方に残る記録を見つつ、批准書の交換式当日の模様を再現してみたい。批准書交換式のため江戸城内「外務御殿」に向かう大行列は、江戸町奉行の一人が道を開けるため、槍そして傘、その後に駕籠が進んで先導する。デュシェヌ=ド=ベルクールは、これは(日本の)高官に特徴的*32) フランス外務省外交史料館所蔵資料のマイクロフィルム。*33) 外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第四巻475頁。なお、この書簡の日付は1859年9月14日(注34参照)となっているが、批准書交換式の後に書かれたものであり、9月24日が正しいと思われる。なものだが、外国の代表の公式な外出の際にも用いるのが適当とされた、と解説している。今なら、外国要人の白バイ・パトカー先導に当たるであろう。その後を進むフランス側の行列だが、銃剣付きの銃を持つコルベット艦デュ・シェイラ号の20人の一団が前を進み、次にフランス国旗、そして4人の水兵の肩に担がれ旗で飾られた台に載せられた条約が続く。下士官及びその他の人々がその周りを特別に囲み、そのすぐ後を乗馬したデュシェヌ=ド=ベルクールが、やはり馬に乗ったデュ・シェイラ号の士官とともに進む。フランス総領事館のメルロ書記官と通訳のジラール神父は、その後を駕籠で進み、新たな水兵の一団が行列の終わりを締めくくる。この堂々たる行列に惹かれぎっしりと集まった人々の波の中を通り、続いて、江戸に在住する諸侯・高官の屋敷地を通る2時間の行進の後「外務御殿」に到着し、会見の間の隣の部屋に通される。デュシェヌ=ド=ベルクールは、そこで、彼とともに条約の審査を老中から任され、通訳の森山がそばに付いた日本側の全権委員(外国奉行の酒井)を見つける。第一の老中(間部のことと思われる)が到着していなかったので、条約を会見の間に置き、他の部屋に冷たい飲み物を飲みに行く。デュシェヌ=ド=ベルクールは、通訳の森山に、式事は長い時間がかかるに違いないから無駄にする時間はないと言いつつ、感謝の意を示す。デュシェヌ=ド=ベルクールは、つまるところ、自分が日本側の条約・批准書を早く見たく、また、自分が御殿に持ってきた批准書が一時的にでも放置されているのが我慢ならなかったと解説している。その後、デュシェヌ=ド=ベルクールは、念のため士官達が自分とともに会見の間に入ることが出来るか聞き、すべて調整済みとの答えを得ている。そのときに、第一の老中(間部)の到着が知らされたので、案内する日本側の全権に付いて行き、老中達が出迎える部屋に入る。この部屋は初回の面会の際にデュシェヌ=ド=ベルクールらが通された部屋で、老中達はその時と同じく端で待っていた。デュシェヌ=ド=ベルクールは士官達を老中に紹介し、日本側は初回の面会 ファイナンス 2018 Dec.47日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(7) SPOT

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