ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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し込み、自分の通訳のジラール神父の同席を予告する。なお、ここで出てくる2人の宰相は、外国掛の老中の脇坂、間部のことである。これに対し、日本側はデュシェヌ=ド=ベルクールが知らせたことは全て理解した上で9月18日に「外務御殿」にて2人の宰相との面会を設けるとの書簡を返し、デュシェヌ=ド=ベルクールは、この面会にメルロ書記官と僧衣でなく平服を着たジラール神父を伴ったと書いている。続いて、デュシェヌ=ド=ベルクールは居所について触れている。日本到着から2日後の9月8日には、江戸三田の済海寺にフランス総領事館が設置されており*27、デュシェヌ=ド=ベルクールは程なくして済海寺に入ったと思われるが、彼は、この場所について、海を見下ろす丘にあって、イギリス使節団(高輪の東禅寺)やアメリカ使節団(麻布の善福寺)と近い地区にあり、市街の中心又は将軍の御殿を囲む地区にある「外務御殿」からはかなり遠いところにあると記述している。済海寺は、現在の慶應義塾大学から南に300メートルほど行ったところにあり、当時海に一番近い道だった第一京浜(旧東海道)から急坂を上って一本内側の道に海側を背にして面しているので、当時は江戸湾の情緒ある景色が一望できたであろう。彼は、続いて9月18日の面会の様子について触れる。通された部屋は質素で装飾もなく、次に通された面会の部屋も質素だがより広々していたと書いている。装飾が施されたフランスの王宮や館からすると、確かに日本の御殿は質素で装飾がないという感想を抱いても無理はないであろう。そして、外国掛の老中である脇坂、間部の両名は、部屋の中央の端でデュシェヌ=ド=ベルクールを待っており、その後ろには老中の命令の下外務政策を司る7人の奉行(Bounios*28)が正座し、さらに通訳の助けを借りながら帳面と筆を持って発言者の全発言を常に記録する2~3名の速記者が正座し、部屋の端には役人の一団がやはり正座していたと記述している。日本側の通訳は、森山栄之助で、その名は外国と締結した条約への参加によって知られており、*27) 東京都教育委員会が建てた済海寺の案内板「最初のフランス公使宿館跡」(平成24年3月)によると、安政6年8月12日(旧暦)すなわち新暦では1859年9月8日に設置されたとある。*28) この「奉行」のフランス綴りの「ブニヨ」から分かるのは、当時の江戸で、ガギグゲゴを非鼻濁音の[g]ではなくて鼻濁音の[ŋ]と発音していた事実である。当時の外国人が残した文献は、日本語の発音を耳で聞いた通り書いているため、当時の発音が分かり、面白い。なお、外国奉行は5人であるので、7人いたというのが気になるが、デュシェヌ=ド=ベルクールの書簡からは詳細を読み取ることはできない。*29) ここから分かるのは、外国語が話せることや開国に関係した仕事をしていることに対する風当たりが相当強かったという点である。*30) 江戸品川に来航したムラヴィヨフ総督が樺太全土はロシア領であると主張したのに対して、1859年7月26日の同総督との会談で、幕府側がその主張を退けた話がこのように伝わっていたのではないかと思われる。*31) イギリスは幕府との日英条約の批准書の交換を1859年7月11日に実施。そのために不興を被り*29、英語とオランダ語に彼よりも秀でた者を見つけることができないという理由だけで雇われていて、老中の合図でひざまずいたまま膝行(いざ)って平伏して指示を受け、同じ態度で老中の言葉を我々に伝えたと述べている。そして、老中は、長旅の後無事に到着したことに祝いの言葉を述べ、デュシェヌ=ド=ベルクールはフランスにおいて締結された約束(条約)の忠実な執行を含め、日本との良好な関係の維持を願っている旨を伝えている。これに対し、老中の側からは、ロシアのムラヴィヨフ総督に対しては示したらしい外国人が日本に対して引き起こしている迷惑に関するぶっきらぼうで率直な話*30がデュシェヌ=ド=ベルクールには示されるようなことはなく、日本側は最良の調和の方向性の中で両国関係が維持されるよう何事もおろそかにはしないとの答えがあったと、デュシェヌ=ド=ベルクールは記述している。こうしたやり取りのあと、デュシェヌ=ド=ベルクールは、老中に対し、フランス政府が、フランスの様々な産業部門の見本を江戸に贈物として持ってくる任務を自らに課し、それらの贈物は将軍又は幕府のメンバーに向けたものである旨を伝え、老中は、将軍は感謝の意を確実に示すだろうと答えている。ここで、デュシェヌ=ド=ベルクールは初めて、条約批准書の交換の話をする。日本側は批准書の交換は「外務御殿」にて、老中が出席し、デュシェヌ=ド=ベルクールとともに批准書を審査する(日本側の)全権委員を指名した上で行い、将軍の批准書は他の列強に対するものと同じ形式、すなわち、条約と一体をなすある種の前書きと将軍から枢密会議に下された批准書の命令の複写によって行われると説明する。そして、この前書きには将軍自身の署名がなされ、国璽が押され、外国掛の老中の署名が付されると、デュシェヌ=ド=ベルクールは大臣宛ての書簡に書き記している。彼は、批准書の交換*31を終えたがそれをまだ本国に送っていなかったイギリスのオールコック総領事46 ファイナンス 2018 Dec.SPOT

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