ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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郎八他二名に「ロシア、フランス、イギリス、オランダ、アメリカは条約の批准書の交換ができた*18ので条約の写しが届いた。その趣旨を皆に至るまで心得させるようにする必要がある。この趣旨は、天領、大名・旗本・御家人の領地、寺社領を含め漏れのないようすぐに知らせる必要がある。」という老中の御書付(通達)を渡し、この御書付を町に御触れに出すことを申し渡すとともに、頁数の多い条約書本文の御触れのやり方は追って別に相談すると伝えている。これを受け、町奉行の下にいた町年寄より、条約は頁数が多く筆写に時間がかかり誤字脱字や書損じが生じないとは言えないため、名主たちに尋ねたところ寛政3年(1791年)に版木を彫って印刷した前例があるので、今回もそのようにし、江戸1670町及び名主227人分を見込んで5ヵ国条約を2000部刷れば良いので、作業を書物問屋に頼んだらどうか、という申し出がなされた。そして、7月21日に町年寄から書物問屋にその旨申し渡し作業を進めているのである*19。老中の通達には、上記のとおり、全ての人々に対し、全ての土地で漏れがないよう条約の趣旨を伝える必要性が明記されており*20、特に都市部における江戸時代の識字率の高さも背景に、幕府は安政5ヵ国条約を人々に浸透させようとしていたことが分かる。(4)日仏修好通商条約の発効日仏条約第22条では、1859年8月15日までに条約の批准書の交換が行われなかった場合でも、同日から条約が発効すると規定している。皇帝ナポレオン三世による条約批准書を携えたデュシェヌ=ド=ベルクールは8月15日までに江戸に到着しなかったので、法的には、日仏条約は同日に発効したことになる。しかしながら、実際に発効日の意味が明確に理解されていたかというと、疑問もある。というのも、日仏条約第3条は、箱館、神奈川(横浜)及び長崎の開港日は1859年8月15日と定めていたが、調べていくと、日*18) 実際にはこの1859年7月11日に安政五ヵ国条約の中で初めて日英条約の批准書の交換が行われている。*19) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第二巻257~264頁。*20) 既に幕府側の動きは進んでいたが、後述するように、日仏条約の批准書交換の直前の1859年9月18日にフランス側から条約の一般への周知が要求されている。*21) 前掲大蔵省関税局編「税関百年史」134頁及び前掲横浜税関百二十年史編纂委員会編「横浜税関百二十年史」5頁。*22) なお、日米和親条約第9条は、日米修好通商条約の発効日である1859年7月4日以降もアメリカに対する最恵国待遇条項として機能した。というのも、日米修好通商条約に最恵国待遇条項を規定しなかった一方で、同条約第12条は、同条約締結に伴って「日米和親条約のうち日米修好通商条約と齟齬を来す部分は適用しない」と規定しており、引き続き日米和親条約第9条は適用され続けたためである。*23) 日蘭追加条約は日蘭修好通商条約第10条によりその発効日の1859年7月4日に廃止されたが、3港開港日は1859年7月1日であり、その時点では日蘭追加条約第39条に基づく最恵国待遇が適用されていた。また、1859年7月4日以降の最恵国待遇は、日蘭修好通商条約第9条によっている。*24) 前掲外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第一巻218頁、「佛國使節渡來ノ趣意書」。英条約及び日露条約で定められた同年7月1日の対イギリス・対ロシアの開港日に、最恵国待遇条項に基づき、同年7月4日を開港日としていたアメリカ・オランダ及び同年8月15日を開港日としていたフランスに対しても、これら3港が開かれたことが分かったからである*21。アメリカに対する最恵国待遇は1854年に結ばれた日米和親条約第9条*22に規定され、オランダに対する最恵国待遇は1857年に結ばれた日蘭追加条約第39条*23に規定されていたので、新たに結ばれた日英条約や日露条約で認められた3港開港が直ちにアメリカ・オランダに対して適用されるのは道理である。問題は、フランスの場合であり、日仏条約は1859年8月15日まで発効せず、また、アメリカやオランダのように従前から最恵国待遇を定めていた条約もなかったので、3港開港の同年7月1日の時点では、フランスに対して最恵国待遇条項は適用できずフランスには開港できなかったはずなのである。しかしながら、フランスに対しても同日に3港が開港されていることを考えると、当時、日仏条約による最恵国待遇の適用と同条約の発効日との関係は、法的にきちんと整理・検討されなかったのではないかと思われる。(5) デュシェヌ=ド=ベルクール初代駐日 フランス総領事の来日さて、1859年9月6日にコルベット艦デュ・シェイラ号で江戸に到着したデュシェヌ=ド=ベルクールは、同日、次の書簡を老中宛に送り、その中で、○自分の任務は日仏条約の批准書の交換でありそのために日本側に担当高官を任命してもらって批准書交換の日時場所を定める必要があること○日仏条約の各条と貿易章程の円滑な執行のため総領事に任命され、そのために老中に信任状を差し出す必要があること○幕府側から自身が職務を行うべきとの文書を取り交わしてもらう必要があることを述べている*24。なお、【 】は筆者による解説である。44 ファイナンス 2018 Dec.SPOT

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