ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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○8月19日締結の日露条約は永井、井上、堀、岩瀬の4人の外国奉行と目付として津田半三郎が、○8月26日締結の日英条約は水野、永井、井上、堀、岩瀬の5人の外国奉行と目付として津田半三郎が、○10月9日締結の日仏条約は水野、永井、井上、堀、岩瀬の5人の外国奉行と目付として野々山鉦藏がそれぞれ署名しており、外国奉行は外国交渉の窓口として機能し始める。しかしながら、日仏条約署名直後の10月11日、まず将軍継嗣問題で一橋徳川家を支持していた岩瀬が外国奉行から作事奉行に左遷され*11、井上も一橋徳川家を支持していたため1859年3月28日に外国奉行から小普請奉行に左遷され*12、永井は同日に軍艦奉行に異動するもやはり一橋徳川家を支持していたため同年9月23日に隠居差控の処分を受けるなど、条約締結交渉を知る人物が安政の大獄に伴って次々に外国奉行から外される事態が生じる*13。一方で、岩瀬に代わり村垣淡路守範正が、井上と永井に代わり酒井隠岐守忠行と加藤壱岐守則著(のりあき)が、それぞれ新たに外国奉行に任命される。残留組の水野、堀に村垣、酒井、加藤を加えた体制となったが、神奈川(横浜)開港直後の1859年7月3日、戸部役所と横浜運上所の長を兼ねる神奈川奉行をこの5人が輪番で務めることになる。また、デュシェヌ=ド=ベルクールとの間での条約批准手続の際、批准書交換証書に署名したのがこのうちの酒井である。次に、神奈川(横浜)、長崎、箱館の3港開港に向けた準備である。筆者はこれまで条約上「神奈川」とある部分の解説にカッコ書きで横浜と添書きしてきたが、神奈川は東海道沿いの宿場町である一方、横浜村は当時入江を隔てて反対側にある砂州の上にあった。しかし、神奈川は遠浅で良港としての条件を備えておらず、外国人居留地を開設する土地もないことがわかり、さらに、東海道上の交通の要衝で取締上問題もあ*11) 岩瀬はさらに1859年9月23日に作事奉行御役御免となっている。*12) ただし、井上は1859年11月27日に軍艦奉行に返り咲き、左遷状態から脱する。*13) 外国掛の堀田正睦老中が罷免されたり、複数の外国奉行が左遷されたりしたことは、安政5ヵ国条約締結交渉を知る者がその後の条約実施段階に関与できなくなった点で、日本にとってマイナスに効いた面があると思われる。また攘夷派や第13代将軍徳川家定死去に伴う将軍継嗣問題で対立した一橋慶喜派を弾圧した安政の大獄のイメージから井伊大老が強権を発動して人事を断行していたとの見方が一般的である。ただし、冷静に見ると、孝明天皇の勅許を得ずに条約締結を行ったとの攘夷派の批判をかわすために、日米条約締結の時点で交渉の責任者であった老中の堀田に責任を取らせつつ、他の4カ国との交渉を円滑に進めるために日米条約の交渉担当者だった外国奉行の岩瀬、井上はあえて温存した上で、5ヵ国目の日仏条約を結んだ直後に5条約全ての交渉を担当した岩瀬を左遷し、さらに半年後に5条約のうち4条約を担当した永井・井上を外国奉行から左遷・異動させたと見ることもでき、条約交渉を円滑に行いつつ高まりを見せる攘夷運動を抑える一つの手として、順序立ててこうした人事を実施していったようにも見える。*14) 前掲横浜税関編「横浜開港150年の歴史~港と税関~」(三訂版)6頁及び横浜税関百二十年史編纂委員会編「横浜税関百二十年史」(昭和56年)43頁。*15) 大蔵省関税局編「税関百年史」(昭和47年)137頁*16) 同上137~138頁。*17) 外務省藏版・維新史學會編纂「幕末維新外交史料集成」第二巻255~257頁。るため、外国奉行はアメリカ総領事のハリスに対し、開港場として神奈川ではなく横浜を主張したが、ハリスは条約に神奈川とあるのに神奈川を開港しないのはおかしいとして納得しなかった。しかし、ハリスの同意は得られなかったものの、外国奉行は幕府に対し1859年3月26日に横浜開港の基本方針を示して了承を得、そこから開港日7月1日までの3ヶ月の間に突貫工事を行って、東波止場、西波止場、海関・外交事務を行う神奈川運上所、役宅、道路、橋、日本人居留地、外国人居留地を完成させた。外国人居留地の国別の割振りは、イギリス・アメリカは日本在留を必要とする人数に応じて居留地の地所を分けるべきと主張する一方、フランスは五ヵ国均等を主張しなかなか決まらなかったが、結局競売で決定することとなった*14。長崎については、早くから中国及びオランダとの貿易が行われていたため、それに伴って設けられていた長崎会所の一部として湊会所を設け、長崎奉行の支配の下に、海関・外交事務を行うこととなった*15。箱館については、従来の出入船取締の沖の口番所ではなく、新たに運上会所の建設に着手したが、開港日7月1日に間に合わなかったため、とりあえず弁天町の山田宅に仮事務所を設け開港日と同時に運上事務を開始して海関・外交事務を行い、開港日から2ヶ月後の1859年9月に新たな運上会所ができたので、そちらに運上所を移転している*16。最後に、一般への安政5ヵ国条約の周知である。まず、日米条約の内容がほぼ固まっていた時期である1858年4月18日から6月5日までの日本側の文献を見ると、諸大名に条文の内容を知らせる板摺りについて、当初、条約の趣旨を示す前文や批准手続・条約正文言語の部分は省略する方針でいたところ、諸大名の疑惑を生まないよう全部そのまま載せることに決めた経緯が分かる*17。また、1859年7月1日の3港開港の直後の7月11日には、江戸南町奉行池田播磨守頼方が与力の中村次 ファイナンス 2018 Dec.43日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(7) SPOT

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