ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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大臣に謁見している*5。他方、現在、フランス外務省外交史料館には各2通ずつが保管されているので、いずれかの時点で、グロ男爵所有の条文各1通もフランスに持ち帰られたのであろう。なお、グロ男爵のこの書簡は、漢字かな混じり文について相変わらず、「僧侶及び高位の行政庁にしか理解できない条文」と解説し、また、条約蘭文の仏訳には「坊主文字の条文は、中身を庶民の目には理解不能なものとするための文体で、カタカナ、ひらがな及び符号からなる」との注釈が付いている。日本に関する評価については、グロ男爵は、「ド=モジュ侯爵には、我々が辞してきたばかりの素晴らしい国が我々に与えた印象と、特に我々の共感を呼んだ知的で、器用かつ才気に溢れた人々について大臣閣下にお知らせする任務を与えた」と記しており、彼が日本と日本人を大変気に入っていたことが分かる。また、グロ男爵は、日本及び中国の両方と条約を締結できたことが大変うれしかったようで、「皇帝(ナポレオン三世)の政策が極東において獲得したばかりの二つの成功に私がどのくらい満足しているか、また、近代の最も記念すべき出来事の一つ、すなわちキリスト教の恩恵と西洋諸国の文明に対する中国及び日本の開国に私の名前が紐づけられたことにどのくらい喜んでいるか、大臣閣下に申し上げるまでもありません。私は、この崇高な任務の達成のために(フランス)帝国の選択において私を指名して下さったのが大臣閣下であることを忘れることはありません。また、常にいずれの地においても、大臣閣下に私の熱烈かつ真摯な感謝の気持ちをお分かりいただきたいと願っております。」と書簡を結んでいる。グロ男爵は、この後、11月24日に清とフランスとの間の関税表及び貿易規則を清との間に締結する。そして、年末近くに、グロ男爵に対し、北京への大使館の設置とそこでの大使就任を打診するヴァレヴスキ外務大臣の11月9日付の書簡が届くが、グロ男爵は12月28日付で同大臣に書簡を返し、○2年間の疲労と絶え間ない職務で休息が必要な健康*5) 前掲ド=モジュ著「1857年及び1858年における中国及び日本使節団の回想」342頁。なお、同著では、パリに到着した日付が記されていない。マルセイユ-パリ間は800km弱、日本で言えばおおよそ広島-東京間に匹敵する遠距離であるが、1856年にマルセイユ-パリ間の鉄道が全通しており、翌年のグロ男爵の帰国時と同様、2日程度でマルセイユからパリまで到着できたのではないかと考えられる。*6) アンリ・コルディエ著「1860年の中国派遣、外交史・注釈・文書」(1906年)((《L’Expédition de Chine de 1860, histoire diplomatique, notes et documents》par Henri Cordier))38頁。*7) 同上42頁。状態であり家族も遠隔地に長期間留まることを望んでいないこと○清の咸豊帝は自らの大臣に対し厳しい言葉を投げ、広東や大沽を攻撃して奪取し、かつ、ピストルを喉元に突き付けて同帝を屈辱的で致命的な条件に服させた外国高官(イギリスのエルギン卿とフランスのグロ男爵を指すと思われる)を歓迎していないことを述べ、皇帝ナポレオン三世に自らの処遇を考え直すよう伝えてほしいと頼んでいる*6。結局、ヴァレヴスキ外務大臣は、○1859年1月22日付で、イギリスも結局、北京には大使館を置かず、かつ、大使ではなく特命全権公使を派遣することに方針転換したことを述べ、フランスも同様の対応をするべきであると皇帝ナポレオン三世に報告した上で*7、○同年1月25日付で、ブルブロン中国公使に対し、グロ男爵の中国での任期は同日に終了するので、グロ男爵の方針はブルブロン公使が引き継ぐように伝える書簡を送り、グロ男爵のフランス本国への帰国が決定する。グロ男爵は、同年4月7日、香港を出発し、8日にマカオを経て、紅海を通り、スエズからアレキサンドリアまでは鉄道を用い、その後また船に乗って、マルセイユに6月4日、パリに6月6日に到着している。(2) デュシェヌ=ド=ベルクール初代駐日 フランス総領事の任命と出航ド=モジュ侯爵が1858年末にフランスに日仏条約の原本を持ち帰った後、フランス外務省は直ちに日仏条約第2条に基づく外交官の日本派遣の準備を始めたようである。上述の1859年1月22日付のヴァレヴスキ外務大臣から皇帝ナポレオン三世への報告においては、日本との関係について、「皇帝の御意思はグロ男爵が日本と締結した条約の条項の利益を我々の貿易と海運に対して確保することにあるので、この帝国(日本)において我々の利害に不可欠な援助と支援を有することが重要であることから、他の外交官の地位と同 ファイナンス 2018 Dec.41日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(7) SPOT

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