ファイナンス 2018年12月号 Vol.54 No.9
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在フランス日本国大使館参事官 有利 浩一郎6日仏修好通商条約の発効と批准(1) フランス側における条約蘭文の仏訳及び条約和文の仏訳の作成1858年10月9日に日仏条約の署名を終えたグロ男爵を始めとするフランス使節団は、3(9)で述べた通り、中国への帰途、10月16日に長崎に寄港し、ドンケル=クルチウス出島商館長に会って条約蘭文の仏訳を頼んでいる。これは、日仏条約において、和文と仏文の間に解釈の相違がある場合は蘭文によるとされる一方、条約の交渉時にはフランス側にはオランダ語を解する者がおらず日本側通訳の森山栄之助の蘭文訳を全面的に採用するほかなかったため、事後、条約蘭文の内容を再確認する必要があったことによる。この条約蘭文の仏訳は、グロ男爵が上海に帰り着いた後に、上海で書かれた1858年11月5日付のヴァレヴスキ外務大臣宛ての書簡*1に別添されている。その仏訳を見ると同年10月20日長崎にて作成*2されたとされており、オランダ出島商館は4日間で条約蘭文の仏訳を仕上げたことになる*3。また同じ書簡には、条約和文の文字通りの仏訳も付されている。条約和文には漢字かな混じり文とカタカナ文の二種類があり、両者は必ずしも完全に一致しておらず内容に差異が見られることはこれまで解説してきたとおりであるが、その差異に着目してこの条約和文の仏訳を見ると、この*1) フランス外務省外交史料館所蔵の「中国 1858年10月から12月 グロ男爵使節団第26号」(《Chine 1858 octobre à décembre Mission du Bon. Gros N°26 》)という書簡群の番号99。*2) 訳の作成者は、注釈でドンケル=クルチウス館長の書記官のMonsieur de Graaft de Polsbroek(ママ)と記されているが、これは、その後の出島商館廃止後に駐日オランダ総領事、さらには駐日オランダ弁理公使を務めつつ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、さらには一時的にプロイセンやスイスの代表も兼ねて、これらの国と日本との外交交渉を助けたディルク・デ=グラーフ=ファン=ポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek)のことである。なお、彼の子供の一人であるアンドリース・コルネリス・ディルク・デ=グラーフ(Andries Cornelis Dirk de Graeff)は、駐日オランダ大使を務めた後オランダの外務大臣を務めた。*3) 3(8)の注1において、幕府側の通訳であった森山栄之助が作成した条約蘭文をオランダ人に見せたところ、大変分りやすい文章だと言っていたとの話を書いた。一方で、このデ=グラーフ=ファン=ポルスブルックによる条約蘭文の仏訳の注記には「森山の蘭文版は大変出来が悪く、かつ、たびたび理解不能である。しかしながら実質においては条約和文との間に根本的な違いは全くない。」と厳しい評価が書かれていた。森山の蘭文が外交文書としてのレベルに達していなかったのかもしれないが、たまたま泊まった民宿の経営者のオランダ人夫婦にも条約蘭文を見せてみたところ、意味は良く分かるが綴りが違う(古い)ということも言っており、それも上記の厳しい評価の理由の一つかもしれない。なお、この条約蘭文の仏訳の際、森山による大きな翻訳漏れが数ヶ所見つかっている。*4) ちなみに書簡にはtextes en Japonais Siragana Bonzique(「しらがな」と坊主文字の日本語条文)と書かれ、江戸言葉の「ひ」の「し」への転換が反映されているのが面白い。仏訳は実はカタカナ文を翻訳したものであることが分かる。通訳として同行していたメルメ=カション神父が作成したものであろう。いずれにせよ、この11月5日付の書簡では、これらの翻訳をもって、グロ男爵は、「いくつかの不整合な点があるものの、最もひどい悪意を示さない限り両当事国にとって完全に理解不能な条項はない」「条約蘭文は仏文と和文の解釈の相違があるときに限り参照されることになっているが蘭文に頼る必要性は全くないものと信ずる」との評価を下している。ただし、4(8)及び4(19)で述べた通り、後に日仏条約第7条及び第19条の和文と仏文の相違が問題となり、翌年の条約批准後、日仏両国間で証書(宣言)を合意することになるのだが、この経緯は後述する。この書簡には、フランス側が日本から持ち帰った日仏条約本文及び貿易章程の仏文、カタカナ文、ひらがな・坊主文字文(漢字かな混じり文)*4及び蘭文各2通ずつのうち、各1通をグロ男爵の手許に残し、もう1通ずつを日本への交渉に同行したド=モジュ侯爵をしてヴァレヴスキ外務大臣に直接届けさせると書かれている。そして、ド=モジュ侯爵はグロ男爵の書簡の日付の2日後、1858年11月7日に上海を出航、インド洋、紅海を通って12月27日にマルセイユに着き、パリに戻って皇帝ナポレオン三世とヴァレヴスキ外務日仏修好通商条約、その内容と フランス側文献から見た交渉経過(7)~日仏外交・通商交渉の草創期~40 ファイナンス 2018 Dec.SPOT

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