ファイナンス 2018年11月号 Vol.54 No.8
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に美江寺があり、地名も美江寺町となっている)。その後、廃寺となっていたものが明治時代に再興され、現在の美江寺観世音堂となっている。揖斐川を渡り、大湫宿辺りとはうってかわって平坦な道を進む。この周辺は濃尾平野の北端に当たり、一面の稲作地帯となっている。赤坂宿は、往時は杭瀬川の水運と、谷汲山への巡礼街道の起点として大いに賑わったらしい。赤坂宿周辺は平坦な地形だが、近くに岡山という小さな丘がある。その丘からは街道を押さえることができ、また、展望も良いという理由で、関ヶ原の戦いの前日、徳川家康が本陣を置き、大垣城に籠る西軍と対峙した場所である。関ヶ原の戦いの後、岡山は勝山と改称された。進んで垂井宿である。美濃の国一の宮である南宮大社の門前町として発展した。また、近くに美濃国分寺跡もあり、古代においてはこの周辺が美濃の国の中心部であったのだろう(と思う)。余談5:谷汲山華厳寺といえば、西国三十三所巡りの満願の札所として有名であり、江戸時代から多くの参拝者が訪れた。現在では、日本最古の巡礼である西国三十三所観音巡礼を日本遺産に登録しようという運動も活発化している。華厳寺は、その名に恥じない堂々たるお寺であり、門前町も賑わっているが、一つだけお勧めするとすれば、入り口付近にある「あさのや」。参拝の前後に、ここでコーヒーを喫し、甘味などをいただくのが良い思い出となる(注:あさのやからは、何の謝礼も受け取っていない)。余談6:西軍が籠っていた大垣城は、戦前には国宝に指定されていたが、戦災により焼けてしまった(戦後再建)。なお、大垣市といえば、岐阜県第二の都市であるが、歴史的には文教の街として知られる。明治21年に日本で初めて博士号が50名に贈られたが、大垣出身者が4名もおり、その後も、日本の学問をリードする博士を次々と輩出した。江戸時代の大垣藩主戸田氏が文教重視の治政を行ったことが影響しているのであろう。(8)関ヶ原宿関ヶ原宿に近づくにつれ、両側から山が迫ってくる。赤坂に本陣を置いた徳川家康は、翌日には桃配山に本陣を進めており、最終的には会戦地近くまで進出している。その徳川家康最終陣地付近に、関ヶ原古戦場にふさわしい新たなシンボル拠点として、「岐阜関ヶ原古戦場記念館」を作る計画が進んでいる。2020年東京オリンピック・パラリンピックの開会前には完成する予定であり、戦国時代に関心のある方々のメッカになることは確実である。なお、岐阜城からは関ヶ原を含む西美濃を一望することができる(当然、関ヶ原から岐阜城を見ることもできる)。織田信長は、京都との連絡も考えた上で、地の利を得られる岐阜城を天下取りの拠点としたのだろう。余談7:赤坂に本陣を置いた徳川家康は、翌日は桃配山に本陣を進めた。この桃配山の名前、壬申の乱の際に、大海人皇子(後の天武天皇)が兵士を労うために桃を配った故事に由来するという。徳川家康は、その縁起の良さを知っていて、ここを本陣としたのかもしれない。(9)今須宿岐阜17宿の最後を飾るのが今須宿である。大湫宿のような山中の静かな宿場であり、あと1km弱歩けば滋賀県米原市である。関ヶ原の戦いの翌日、徳川家康は今須宿の本陣に泊まり、体を休めたという。そのとき腰掛けたと言われる石が今須宿・妙応寺の敷地に残されている。(10)中山道まとめ岐阜の中山道17宿は、それぞれの宿場で地元の方々が、街並みの保存やボランティアガイドの育成に取り組みつつ、宿場同士が連携して「中山道ぎふ17宿踏破ウォーキング」やサイクリングイベントなどを開催している。歴史を体感しつつ、徒歩や自転車で汗を流す、地元のおいしいものも食べる、という、五感をフルに刺激し、観光に求められる要素が凝縮したような岐阜中山道。是非初めの一歩を印していただきたい。28 ファイナンス 2018 Nov.SPOT

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