ファイナンス 2018年11月号 Vol.54 No.8
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十九折の道が続く。道が石畳になり、過し世を静かに思わせる。鬱蒼とした森の中を歩いていくと、ある角を曲がったところでぱっと視界が開ける。遥か下界には中津川市街が拓け、山の斜面には「落合の棚田」や段々畑が並び、遠くには恵那峡(大井ダム)が見渡せる。まさに絶景である。落合川を越えれば、まもなく中津川宿だ。余談3:大井ダムは、福澤諭吉の婿養子である福澤桃介により建設された。彼が木曽川に着眼したのは「上流に御料林があり水源は尽きることがない。木曽川の急勾配で発電でき、大阪名古屋のマーケットにも近い。」との理由による。大井ダムによって誕生したダム湖は奇岩絶壁が両岸に聳え、「恵那峡」と名付けられて著名な観光地となっている。(3)中津川宿、大井宿中津川宿は、中津川駅の駅前という市街地にあるが、地元の尽力により当時の宿場の雰囲気が保たれている。いずれの宿場にも、真ん中には「枡形」と言われる屈曲部があるが、中津川宿では、その枡形の真ん中に「川上屋」という和菓子の名店がある。栗きんとんがとてもおいしい(注:川上屋からは、何の謝礼も受け取っていない)。なお、東京にも支店のある「恵那川上屋」とは別の店であり、もともと「川上屋」で働いていた方が始めた店が「恵那川上屋」らしい。さて、岐阜県の誇る偉人の一人に杉原千畝がいる。リトアニアの領事代理であった彼は、外務省の指示に従わず、人道主義の立場から6000人を超えるユダヤ人難民らにビザを発給したことで知られる(彼は昼夜を問わずビザを書き続けたので、最後には腕が動かなくなったという)。杉原千畝の父は税務職員であり、千畝の幼少時は、父の転勤に伴って中津川尋常高等小学校に通っていた、というと、財務省・国税庁の方々には親近感が湧くのではないだろうか。その当時、千畝の父が勤務していた税務署や、千畝が住んでいた家は、まさに中津川宿の本陣跡近くにあった。中津川宿から大井宿までの中間ぐらいに、JR中央本線の美乃坂本駅がある。現在は、夜間無人となる小さな駅であるが、ここにリニア中央新幹線岐阜県駅とリニア車両基地が作られる予定となっている。大井宿といってもピンと来ない方が多いかもしれないが、1954年に大井町などが合併して誕生した恵那市の中心部に存在する。ただ、恵那市の名前の由来となった恵那山は中津川市にあるからややこしい。大井宿周辺には当時の面影を残す建物がいくつも残っているほか、6か所もの「枡形」が残っている。恵那市と言えば、ふくろう商店街のロケ地となった岩村城下町など、「半分、青い。」の舞台として有名になった。とりわけ岩村城は、その石垣の見事さ、壮大さで、もともと城郭マニアの間では知られた存在だった。日本百名城、日本三大山城に選定されているが、平成29年度には、苗木城跡、美濃金山城跡とともに、「ひがしみのの山城」として「岐阜の宝もの」にも認定されている。城から続く城下町は、江戸時代の雰囲気がそのまま残されており観光客で賑わっているが、一つだけお勧めするとすれば、「かんから屋」のかんから餅。きなこ、ゴマ、あんこの3種類があり、上品な甘さ、御餅のやわらかさ、おいしさにもかかわらずとても安いこと(5つで400円!)など、赤福なんて問題にならない(注:かんから屋からは、何の謝礼も受け取っていない。また、赤福に他意はなく、個人の感想です)。(4)大湫宿、細久手宿大井宿を過ぎると、中山道は中央自動車道や国道19号線を離れて山中に入っていく。ガイドブックによれば、幅員など全体的に往時の面影を残している、とのことだが、自動車で走り過ぎてしまったため詳細は不明である。スミマセン。そして大湫宿。山中にあることから、当時の風情がそのまま残っている。大湫神明神社には樹齢1300年を超える大杉があり、大湫宿のシンボル的存在となっている。いずれの宿場もだが、歴史ある建物を活用した中山道の案内所のようなものがあり、そこを訪れると、梅こぶ茶などをふるまっていただきながら、それぞれの宿場の歴史や見どころなどを教えていただくことができる。ここ大湫宿でも、親切なご婦人(ボランティアガイドさん)から、当時と現在の大湫宿について詳しく説明していただいた。大湫宿を過ぎると、中山道もう一つのハイライト、26 ファイナンス 2018 Nov.SPOT

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