ファイナンス 2018年11月号 Vol.54 No.8
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第7則は、日本政府とフランス政府の間で合意した協定関税率の関税表を定めている。まず、輸入関税については、税率を四分類に分け、(1)貨幣か否かを問わず金銀、使用中の衣服、日本に居住しに来る者の家事用品・本は無税(2)船舶資材、捕鯨用船具、食料・パン等、動物、石炭、住居建築用木材、米、雑穀、蒸気機械、亜鉛、鉛、錫、生糸、木綿、毛織物は価格の5%(3)すべての種類の酒類は価格の35%(4)上記(1)から(3)まで以外の物品は価格の20%とされた。特に注目すべきなのは、(2)である。木綿・毛織物は当初、日米条約、日露条約、日蘭条約では5%の関税率の対象とはされず*7日英条約で初めて関税率5%の適用対象とされ日仏条約でもこれを踏襲しているが、これは日仏条約交渉中にフランスの全権であるグロ男爵が匂わせたように(3(6)参照)、綿・毛織物が盛んだったイギリスの主張を容れたのではないかと考えられる。一方で、(3)の酒類の税率について、グロ男爵は、このイギリスに対する綿・毛織物の低税率の例も引きながらワインの関税率を35%から引き下げようと日本側と交渉したが日本側の譲歩を引き出せずに終わっている。輸出関税については、日本製の物品について、金銀貨幣及び鋳造されていない銅を除き、一律価格の5%とされた。なお、日仏条約本文第14条により、鋳造されていない金銀と銅銭の輸出が禁止されたが、鋳造されていない銅については幕府の独占下にあり、それを前提に、余剰がある場合に幕府が、入札で売却することとされ銅地金を自由に売買して手に入れることは出来なかった。また、米麦については居住フランス人及びフランス船舶乗組員及び旅客には食料として渡すがそれ以外の輸出は禁止された。なお、関税率は、本来、自国法令に基づき定められるものであり、これを関税自主権と呼ぶが、日仏条約を含む安政の五ヵ国条約は、日本の関税率を相手国の合意を得て規定するため関税自主権を喪失しており、かつ、相手国の関税率は日本の合意を必要としないため、不平等なものであるとされている。一方で、1858年の条約締結時には、関税率はすべて従価税(価格に対する百分率)で定められ価格が上昇すれば関税納付額も自動的に上がることになっていた上、価格の20%や35%の高率関税も存在しており、何よりその後欧米列強が日本に関税率引下げを要求したことが、逆に日本にとってそれ程不平等な状態ではなかったことを物語っている。むしろ、関税率が日本に実質的に不利になったのは、攘夷運動に伴う開港延期交渉や、長州藩の外国船砲撃に対し欧米4ヶ国艦隊が長州藩を制圧した下関戦争を背景に幕府が欧米列強の関税率引下げ要求を呑まざるを得なくなり、神奈川開港(1859年)から5年を経過した後に輸入・輸出関税率の再交渉を行えるとの第7則の規定を用いて、1866年、日本とイギリス・フランス・アメリカ・オランダが改税約書に合意したときであると思われる。改税約書では、税率を当時の従価税換算で5%となるように大幅に引下げ、かつ、多くの物品について関税率を価格ではなく量に応じて定める従量税としたが、ここで、相手国の合意を得ないと関税率が変えられないという関税自主権の不存在が効き、例えば物価上昇があっても関税率を変えられないこととなって、日本側に極めて不平等な状況が作り出されたとみるべきであろう。(注) 文中意見にわたる部分は筆者の個人的な見解であり、筆者の属する組織の見解ではありません。なお、文中の日付は旧暦は用いず、すべて太陽暦を用いています。*7) ただし、日米和親条約第9条、日露条約第16条、日蘭条約第9条の片務的最恵国待遇条項に基づき、結局はこれら3ヶ国に対しても木綿・毛織物については20%の関税率ではなく、日英条約貿易章程・日仏条約貿易章程で認めた5%の関税率が適用された。なお、木綿・毛織物はその後日本への輸入品の大部分を占め、安価な機械製綿布の輸入により国内綿産業が打撃を受けたとされる。18 ファイナンス 2018 Nov.SPOT

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