ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
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大牟田この筑紫平野は、もともと断層山地に囲まれた陥没地域で、昔は有明海の一部でした。その後、地盤の隆起、筑後川をはじめとする諸川の土砂堆積、また、潮の干満による泥の堆積により、悠久の時を経て平野を形作ってきました。そして、この平野は、日本でも早くから大陸文化の影響を受けて開発が進んだ地域で、平野を囲む山麓一帯には、原始・古墳時代の遺跡が多くあります。邪馬台国考察においてよく引き合いに出される「吉野ヶ里遺跡」や、九州の有力豪族で、大和朝廷に敗北したことが朝廷側にとっては王権確立の礎となった、筑紫の君磐井の墳墓とされる「岩戸山古墳」もこの平野に所在しています。中世以降になると、沿岸部では干拓地も多くなりますが、低湿地であり、灌漑、排水としてクリーク網が展開、独特の景観が出来上がります。地域観光の一つ・柳川の川下りに利用される掘割は、まさに低湿地ならではの機能・景観といえます。名所・旧跡などをあまり知らずとも、この沿岸道路から目に飛び込んでくる景観を見るだけでも、悠久の歴史を少し感じ取ることができると思います。3大牟田市の産業沿岸道路の南端が大牟田市です。それまでの景観と異なり、目に飛び込んでくるのは、煙突や工場群などの工業色です。沿岸地域はもとより、市街地方面にも煙突が見えるほどです。冒頭でも少し触れましたが、大牟田市は、石炭を中心に、特に明治から戦後復興期にかけて発展した地域です。日本で石炭が発見されたのも、言い伝えでは、ここ大牟田が最も古いとされています。時は1469(文明元)年1月15日、三池郡稲荷村の農民伝治左衛門が、冷えた体を温めようと山で焚火をしていたところ、黒い色をした岩角に燃え移ったとのこと。燃える石の話はたちまち里人の間で広がり、里人達は必要に応じて岩を打ち砕き燃料として利用するようになったということで、これが三池炭発見のはじめといわれています。江戸時代になると、藩営として開坑・採炭が行われることとなり、明治時代に入ると官営に移行しますが、それまでおよそ国内消費していた三池炭は、炭層・炭質ともに良好であるとの外国人技師の調査結果があり、また、当時、上海では列強進出で船舶用石炭の需要が増大していたことから、三池炭が輸出用として本格的に開発されることとなりました。明治9年、三池炭の販売権は一財閥にすべて与えられ、明治22年には、同じ財閥に鉱山も払い下げることとなります。一方、三池炭の出荷方法については、採炭される三池地区(大牟田市)は有明海に面しているものの、沿岸部は遠浅に加え干満の差が激しく1日2回は干潟となるため、小型船で約40キロメートル先の有明海湾口付近まで運搬し、そこから汽船に積み替え出荷する方法が採られていました。この非効率な運搬方法を改善したのが、三池港の築港です。明治4年、元福岡藩士の子であった團琢磨は、かの岩倉使節団に13歳で同行し、米国マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ後、役人として三池鉱山局で勤務します。三池炭鉱が財閥に買い取られた際、團は才能を買われ同財閥に雇われることとなり、宮原坑や万田坑など各坑の開削を推し進めていくとともに、三池港築港を発案し、指揮をとることとなります。築港から6年がかり、明治41年に三池港がついに完成・開港となります。今では世界遺産となったこの港湾の大きな特徴は、その形と機能にあります。上空から見ると、鳥が翼を広げたような優美な形をしていますが、そのうち、海に向かって細長く伸びた鳥の頸部(港口)は、航路に流れ込む海砂をふさぐための1.7キロメートルほどの細長い防砂堤となっています。また、港の奥には、干潮前に海水を塞ぐことで奥域を一定の水位に保つ観音開きの水門(閘門)があります。・三池石炭発見伝説図(大牟田市石炭産業科学館提供)80 ファイナンス 2018 Oct.連 載 ■ 各地の話題

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