ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
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て船底に穴をあけて水死させたりしている。何ともしたたかというほかない。元寇以外に本格的な外敵の侵攻を経験しなかった我が国とは、ある意味で対照的である。元寇の際も元の大軍を文永の役、弘安の役と二度にわたって水際で撃退でき、その後外交戦も必要としなかった。ちなみに本書によれば、ヴェトナムでは、日本への元の侵攻が二度で済んだのは、フビライがヴェトナム侵攻に軍を振り向けたからだという説が有力なのだそうだ。チャン・トック・トアンは、死に際して時の国王に「北方の敵は数を頼んでいるのです。これに対抗するには、しぶとくまた一気に敵を攻撃することです。…軍隊は親子のようにこころを一つに一致団結…民衆にはこころやさしく接さなければなりません。…」と言い残したという。著者は、この遺言は現代にも語り継がれ、対仏独立戦争や対米戦争にヴェトナムの民衆がこぞって戦った背景となったと評している。明の永楽帝は、大軍を送り7年かけてヴェトナムを制圧し、徹底的な同化政策を強行した。当然、民衆の不満は高まり、1416年レ・ロイが蜂起した。彼は、はじめ山岳地帯でお決まりのゲリラ戦を展開し、やがて相手が疲れてくると平野部に進出して反撃に転じ、ついにはハノイ周辺の紅河デルタで決戦して大勝利した。レ・ロイは国内を統一し、20年ぶりに独立を回復したが、明に対しては毎年の朝貢を約束して安南国王に封じられている。1802年に南部を含めヴェトナム全土を初めて統一して王位に就いたグエン・フック・アインも清朝の使節から越南国王之印を押し戴く一方、彼を初代とするグエン朝は、国内や他国に対しては勝手に大南国皇帝を名乗っていた。これまた伝統の面従腹背戦法である。この点、(漢かんのわのなのこくおう委奴國王の時代はともかく、)朝貢どころか、聖徳太子が隋帝国に対して「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と国書を送り、豊臣秀吉が明帝国を征服しようと文禄・慶長の役を起こした直球派の日本とは、大分芸風が異なる。このように軍事・外交面では、逞しくしたたかなヴェトナムだが、どの王朝もはじめは名君が出て国を繁栄させるが、後半になると暗愚な国王が出て衰亡するというプロセスを繰り返した。宮廷官僚たちは腐敗していき、権力闘争に明け暮れ、やがて国内に反乱が多発し、国外と結ぶ勢力も出て、ついには中国の侵攻を許すのである。チュン姉妹の反乱がわずか3年で悲劇的結末を迎えたのも、一緒に反乱した土豪たちが姉妹を見捨てたからであった。19世紀末グエン朝は、フランスの武力に屈し、フランスの保護国となる。ヴェトナムが再び独立を回復するのは、第二次大戦後である。独立宣言後の対仏独立戦争そして米国とのヴェトナム戦争においても、伝統の救国独立の精神と軍事・外交面での逞しさしたたかさは遺憾なく発揮された。ヴェトナム民族の逞しさしたたかさに感銘を受けつつ本書を読了したが、いくら感動しても、昼近くなれば腹が減るのが、凡夫のかなしさである。今日のブランチは、バインミー(ヴェトナム風サンドイッチ)にしようと昨日から心に決めていて、材料も昨日のうちに用意済みだ。寝床から出て洗面したら直ちにバインミーを作り始める。バタバタと作って直ちに食す。当初「そんな高カロリーなもの食べるか」と言っていた家人に、結局は3分の1ほど取られてしまったが、なかなか美味。ホーチミンシティの空港の売店で食べたバインミーと比べて遜色なしと自画自賛する。今晩の献立も決まっている。家内がヴェトナム風生春巻きと鶏出汁のフォー(ヴェトナムの平たい米粉麺)を作ると言うので、私は、にんにくを効かせた鰹のニョクマム炒めにチャレンジする予定である。ダナンの浜辺のシーフードレストランで食べた料理だ。生け簀の中から魚を選んで調理してもらうあの店は美味かったな。瞼を閉じれば思い出す。30センチもある巨大な蝦しゃこ蛄は炒め物で食べ、脂ののった大きな蟹は蒸してもらってかぶりついた。美味かったなあ。次いで、これまた大きな蛤を食べ、コリアンダーをのせたシーフードの焼きそばを食べた後に、50センチ以上ある鰹をニョクマム炒めで食べ、さらにスティームライスを頼んで、魚を食べ終えた皿の汁をかけて食べた。「汁掛け飯で食べるときは、日本の米じゃないと、歯ごたえが軽すぎるなあ」と独り言を言ったその時である。「いいかげんにしなさいっ」と周囲のテーブルにも響く険しい怒声。びくっ。楽しい時間というものは、往々にして、突然かつ破壊的に終了するものである。…いつの間にか夏休みの思い出から醒めた私は、黙々と昼食後の洗い物に励んだ。 ファイナンス 2018 Oct.77新々 私の週末料理日記 その26連 載 ■ 私の週末料理日記

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