ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
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私の週末料理日記その269月△日 日曜日新々今日は朝から寝床の中でずっと読書。「物語ヴェトナムの歴史」(小倉貞男著、中公新書)を読む。夏休みにヴェトナム中部のリゾート地に行った。私自身は日本の田舎でゆっくり過ごしたかったし、海外に行くと語学力の観点から家長の権威が失墜するから気が進まなかったのだが、海外でないと家の者たちが納得しないので、渋々出かけたのである。行ってみると、権威失墜問題はともかくとして、食事もおいしくホテルもビーチもなかなか結構なところであった。折角ヴェトナムに行くのだからと、前掲書を図書館で借り、往復の飛行機の中で読了するつもりだったのだが、体重90キロ近い肥満体にはエコノミーシートはあまりに厳しく、なかなか読書に集中できなくて、結局家に帰って読んでいるのだ。本書を読んで思ったのは、ヴェトナムの歴史は、中国への抵抗の歴史だということだ。著者は、しばしばヴェトナム人を反骨の民族と評している。紀元前111年に漢がヴェトナムを征服してから1千年にわたり、中国はヴェトナムを支配したが、この間ずっとヴェトナム人の反乱に手を焼いてきた。その後も歴代の中国の王朝は、ヴェトナムに兵を進めるが、いつもヴェトナムのしぶとい抵抗にあって結局は撤退している。中国支配下の反乱で有名なのは紀元40年のハイ・バ・チュンの反乱(チュン姉妹の反乱)である。姉妹の反乱は3年で鎮圧されたが、姉妹は英雄とされ、今も多くの寺院に祀られ、ハイ・バ・チュン通りがある街も多いという。後漢側も苦戦し、光武帝が勇将馬援を派遣してようやく抑えたほどである。ちなみに馬援は「矍かくしゃく鑠」という言葉の由来となった人物である。チュン姉妹の反乱制圧の数年の後、馬援は武陵五渓蛮の反乱に出陣を願い出る。この時に既に62歳であり、老齢を気遣った光武帝がこれを許さなかったところ、馬援は甲冑をつけて馬に飛び乗り威勢を示したので、光武帝も笑って「矍鑠たるかな。この翁は」と言って出陣を許したという。ヴェトナムでは、その後も派遣された漢人の支配者が善政をしけば平和になり、悪代官が来ると反乱が即発する時代が続いた。唐代になると、唐は安南都護府を設けてヴェトナムを支配した。「三笠の山にいでし月かも」の和歌で有名な阿倍仲麻呂もヴェトナムに派遣された総督の一人である。彼は、16歳で遣唐留学生として入唐し、唐で官僚として厚遇され、三十数年後、遣唐使藤原清河とともに帰国しようとするが、暴風雨のためヴェトナムに漂着する。折からの安史の乱もあって帰国を断念した仲麻呂は、長安に戻って唐で再び官途に就き、760年鎮南都護として再びヴェトナムに赴きヴェトナムを6年統治し、長安に戻って客死した。766年には安南節度使を授けられている。唐滅亡後、バクダン江の戦いで南漢の水軍に大勝したゴ・クエンは935年自ら王と称し独立した。以後9百年間中国歴代の王朝は繰り返し征服の軍を進めたが、反骨のヴェトナム人の抵抗にあい、成功しなかった。特筆すべきは、ヴェトナムは中国の遠征を撃退すると、何食わぬ顔ですぐに中国に朝貢して、あらためて王に封じられるという巧妙にしてしたたかな外交を常套手段にしていることである。元の世祖フビライはヴェトナムに三度侵攻の大軍を送ったが、救国の英雄チャン・トック・トアンが指揮するヴェトナム軍は、激戦の末大いに破りこれを撃退している。その上でヴェトナム国王チャン・ニャン・トンは、徹底的に破った当の相手の元朝に使節を送り、捕虜とした元軍の将兵を丁重に送り返した。一方で捕らえた将軍たちを送り返すときは、途中あざむい76 ファイナンス 2018 Oct.連 載 ■ 私の週末料理日記

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