ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
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わが愛すべき80年代映画論(第十四回)文章:かつお発売:株式会社クエスト主演:大山倍達、ウィリー・ウィリアムスほか『地上最強のカラテ Part2』1976年極真空手この四文字に、単なる流派名、競技名を超越したロマンを感じなければ、男ではない。言わずと知れた「牛殺し」大山倍達*1が創り上げたフルコンタクト空手(寸止めではなく直接相手に打撃を加える空手)のはしりであり、世界中に支部があり、多くの逸話や伝説をその言葉に内在させる一つの神話である。特攻隊の生き残りであった大山は、山籠もりの修行を終えたのち、世界各地でプロレスラー、ボクサーなどの格闘家と闘い、勝利を収め、やがて独自の格闘体系を形づくっていく。その過程は、梶原一騎先生原作の『空手バカ一代』に詳しく描かれているわけだが、「事実を元にしたノンフィクション」という、二重にかぶせて実話性を訴えるこの触れ込みと、漫画の至る所に登場する「大山倍達談」の文字に、当時の少年たちは熱狂し、メンタルの強い者は家の近くの極真道場の門を叩き、メンタル弱めの者は1972年に設立されたマス大山カラテスクール監修の通信空手でご家庭での鍛練に励んだものである。その極真空手の魅力を余すところなく伝える目的で製作されたドキュメンタリー映画、『地上最強のカラテ』(1975年)の大ヒットによって制作された続編が本作である。前作と同様、燃えたブロックを頭突きで割る、熱した中華鍋に入った砂の中に貫手を放つ、畳を手刀で貫くなど、「どういうシチュエーションでこの技術が必要なんだろう?」という疑問を挟む余地がない程の圧倒的な極真の技の凄まじさ、そして回し蹴りの練習中であっても筋力トレーニングの最中であっても弟子を竹刀でボッコボコに殴る、現代スポーツ界であればパワハラ告発は免れない常軌を逸した極真空手の鍛練の恐ろしさがこれでもかとばかりに描かれている。本作のクライマックスといえば、やはり「熊殺し」の異名を世界に轟かせたウィリー・ウィリアムスとグリズリーとの対決シーンではないだろうか。まるで麻酔銃で撃たれたかのようにグッタリとしている野生の熊。檻か*1) DVD表紙画像参照ら出ると、緩慢な動きでウィリーに近付く。それに対し、無謀にも上半身裸で対峙し、にじり寄って正拳突き、下段蹴りを浴びせるウィリー。どちらかというとクマさんと飼育員がじゃれ合っているようにも見えなくもない、その牧歌的な光景の中にも真剣勝負の緊張感が漂う。そして次の瞬間! 画面はウィリーのランニング風景に切り替わり、「このように、熊を倒したウィリーは…」という、まさかのナレーション処理である。やられた。なるほど。かつて黒澤明は、「観客が一番見たいシーンを見せないことに意味がある。」と語ったと言われるが、小憎らしいばかりの小粋かつ小賢しい演出は、当時の観客も、そして今の時代に見直した大人になった我々も、やはり色んな意味で目頭を熱くする。大山総裁の死後、極真空手は、もはや昭和のプロレス団体のように分裂に分裂を重ね目も当てられない状態になり、「キョクシン」という言葉を発しようものなら、「え? 松井派ですか? 奥様派ですか? 長渕剛の新極真すか?」などという更問を誘発してしまう。また、情報過多な現代社会においては、『空手バカ一代』もそのほとんどが創作であることが露呈しているし、「大山倍達談」の文字は、漫画『魁!!男塾』における「民明書房編」と同レベルの信憑性しかないことは明るみになってしまっている。しかし、そうした事実を明るみにすることに、どれだけの意味があるのだろうか。目指したものが虚構であったり夢であったりすることに、問題があるのか。その夢や虚構を目指して日夜、人間の限界を超える鍛練をし続けた空手家たちの血と汗と涙は現実であり、本物。その虚構があったからこそ、それに耐えて自らの限界を超えた男たちがいたことを忘れてはいけないのかもしれない。財政の均衡は、その現実性・必要性を含め果てなき夢かもしれないが、それを目指して日夜努力し、毎年無駄を削減し、より効率的な行政を目指した財務官僚たちの汗と涙は現実であり、それにこそ意味があることは、もはや言うまでもない。66 ファイナンス 2018 Oct.わが愛すべき80年代映画論連 載 ■ わが愛すべき80年代映画論

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