ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
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本周遊旅行記」などの「有益であると同時に愉快な書物」を挙げた後で、「とはいえ、そうして語られていることは押しなべて、まったく新しい一世界にいきなり運ばれてきて感じた様々なことを、すべて語りつくせていないのである。日本にやってきた者は、誰しも側目を疑う。歩みを勧めるごとに、これはみんな夢ではないか、お伽話ではないか、千一夜物語の一挿話ではないか、そいぶかることになる。それに、目にする光景があまりにも美しいので、雲散霧消してしまうのではないかとおそれるのである」という。(3)写真とジャポニスム更に、この時代に日本に旅した人たちが持ち帰った写真も日本への憧憬を搔き立てた。当時、風景写真が1枚2ドル、100枚ほどのアルバムで200ドルもしたという。このように旅行記や写真が日本への憧憬を搔き立てたというのは、インバウンドの外国人訪問客がSNSに投稿して、更に外国人訪問客を呼ぶという今日の状況にも似ている。(4)ビジネスとジャポニスムそして、多分、重要なことは、ジャポニスムがビジネスにもなったことである。この時代には、ヨーロッパでデパートが初めて登場し、消費の在り方を変えることになる。エミール・ゾラのデパートを舞台にした小説「ご婦人方の幸福」(1883年)の中で、デパートの経営者がジャポニスムに便乗し、上手く商売に利用する場面で「スタートがこれほど慎ましかった売り場も珍しく、今では古いブロンズや象牙や漆塗り製品であふれ返り、年間150万フランもの売り上げがあった。…棚は常に増え続けた。それに売り場は常に新設された。…日本製品の売り場がパリの芸術愛好家の全てを客にするには四年間で十分だった。」と描かれている。ジャポニスムの影響を受けて、更に、例えば、以下のフランス人が日本への関心を搔き立てたという。(5)エミール・ギメパリの万国博覧会から約10年、フィラデルフィア万国博覧会の年、1876年の末にリヨンの実業家エミール・ギメ(1836-1918)が横浜に来航。帰国と同時に、フランスに極東の文明を紹介する仕事に没頭し、1878年には「日本散策」を出版して、日本から持ち帰った多くの美術品を用いて、1879年にその名を冠した美術館をリヨンに開館。10年後にパリに移され、「ギメ美術館」として今日に至っており、この美術館はフランスにおけるアジア学の一大中心地となっているという。(6)ポール・クローデル作家もまた、日本への関心を広める重要な役割を果たしている。「詩人大使」と言われた、ポール・クローデル(1868-1955)は、ロダンの弟子であった姉、カミーユ・クロデールが持っていた「北斎漫画」で日本を知る。外交官試験を首席で合格した彼は、1898年、上海副領事代理のときに、旅行で初めて日本に足を踏み入れ、その後、1921年11月に駐日フランス大使として日本に赴任。25年1月から1年間の休暇を挟んで27年2月まで大使を務めた。日仏の文化・政治・経済の交流を図り、渋沢栄一と組んで日仏会館を、大阪商工会議所会頭の稲畑正太郎ら関西財界人の要望を受けて関西日仏学館を開設。これが今日のアンスティチュ・フランセの前身。京都大学のそばにあるアンスティチュ・フランセ関西には、姉カミーユ・クローデルの手によるポール・クローデルの胸像が飾られている。(アンスティチュ・フランセ関西、落成式の記念ボードには「會舘建設功労者 佛国大使ポール・クローデル殿、貴族院議員稲畑正太郎殿」の名)文学者としては、日本の古典芸能(特に能)と絵画に強い関心を示し、更に、日本の文化から多大な影響を受けて、自分の劇作術や文学観を一新することとなったといわれる。40 ファイナンス 2018 Oct.SPOT

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