ファイナンス 2018年10月号 Vol.54 No.7
42/92

ているかの有名な卵殻磁器がある。…これらの製品は何世紀もの間ヨーロッパ文明から自らを閉ざしてきた人々の勤勉さと才能を証明している。」と日本の展示を高く評価している。また、「芸術協会雑誌」も「日本のすばらしい美術工芸品はきわめて多様である。それらの多くはヨーロッパの最高の職人の作品に匹敵するだけでなく、多くの点で勝っている。マンチェスター、バーミンガム、ロンドン、パリは、日本のコレクションのなかに彼らの工房では生産できないか、あるいは生産できたとしても実際には売ることができないほどコストがかかるようなものを見出すであろう…ここに選ばれた全ての作品は、ヨーロッパ人との接触によって援助を受けることが全くなかったと考えられる人々の競争的な生産能力と文明の進歩をあきらかにすることになるだろう。」と日本の美術工芸品を高く評価。日本人自身の評価よりも外国人からの評価が高いのは、今日、外国人訪日客がありふれた日本人が当たり前と思って見過ごしてしまうような景色を評価して、SNSに載せると、それを見た外国人が殺到することにも似ている。2.パリの万国博覧会パリでは、1867年に万博が開催され、906万人の入場者を数えた。日本はこのとき初めて正式に参加。その前年、フランス皇帝ナポレオン三世から幕府宛に、1867年にパリで開催する万博への出品要請と元首招請についての書簡が届く。大政奉還の直前だったが、大河ドラマ「西郷どん」にも出てくる駐日フランス公使、ロッシュからの強い要請を受けて、幕府は時の将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣。昭武は当時14歳で、その随員の中には渋沢栄一もいた。当時、徳川幕府は、フランスから軍事顧問団を雇い入れるなど、フランスとの関係を強化していた。大政奉還後も、徳川昭武は明治維新後の1868年までフランス留学を続け、フランス語、射撃、乗馬、画学、歴史などを叩き込まれているという。このときは、幕府だけではなく、薩摩藩、佐賀藩も参加。展示品は、武器、楽器、家具、和紙、書籍、陶磁器、漆器、銅器、ガラス器、根付け、「北斎漫画」などの浮世絵、10点ほどの油絵などである。更に3人ほどの柳橋芸者が持て成す日本風茶店もあったという。この時の日本の出品に対しては、紙・漆器・手細工物・養蚕に対してグランプリが与えられ、家具コレクションと繊維製品コレクションに名誉賞が授与されたという。和紙について、「ロンドン画報」は、「日本人の作る優秀な紙は、-90種類もあるがーこの紙の時代においてですら、ヨーロッパ人にはまだ知られていないような様々な目的に利用されている。彼らは、我々がするような部屋に壁紙を張るだけではなく、紙の衣装や、紙のハンカチーフや、かさももっている。…さまざまな色の日本の紙のとても素晴らしいコレクションが博覧会に出品されていて、われわれにはまだ、それほど完全には知られていないこの国から来る全てのものと同様に、大きな興味をそそるのである」当時の美術評論家によると「日本の装飾の魅力をなすもの。それは、いつもその装飾の与え方に現れるファンタジーと奇想である。…これら50、100、1000に及ぶ日本の器物…すべてそれらは、まず第一番に素晴らしい味わい、独創的な奇想、価値、各器物それぞれに固有の興味ある魅力を持っている。」3.ウィーン万博明治時代に入り、1873年のウィーン万博。日本政府として初めて正式に参加した日本の展示はかなりの人気を集めたという。大隈重信が博覧会事務総長に就任し、国威発揚、御貿易拡大を目的としてかなり力を入れたという。展示品は、陶磁器、漆器、衣服、織物、竹細工、紙製品、生糸などの他に、名古屋城の金鯱、大仏の模型なども出品され、神社や日本庭園なども設けられたという。この日本の展示に対しては、工芸品を中心に198の褒賞が与えられ、万博終了後には出品物を売りさばくために会社が設立されたという。この博覧会について、ヨーロッパを視察中の岩倉使(徳川慶喜の名代としてパリ万博に赴いた徳川昭武、「近代日本人の肖像」より、国立国会図書館蔵)38 ファイナンス 2018 Oct.SPOT

元のページ  ../index.html#42

このブックを見る