ファイナンス 2018年9月号 Vol.54 No.6
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ル所ナリ」と記されている。山川と同じく会津出身の柴五郎(後の陸軍大将)は、明治6年陸軍幼年生徒隊に第二期生として入学する。教官はすべてフランス人で食事は当然洋食であったが、土曜日の昼食のみはライスカレーであったという。柴が回想するに「同僚の多くは…食事不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し」とのことであるから、彼はカレーをすんなり受け入れたのであろう。カレーと日本人の出会いはこんなものだったようだが、文明開化以降洋食が普及する中で、カレーは日本の国民食として急速に広まっていく。日本人が受容したカレーは、スパイスを家庭で料理しながら調合する純粋なインド式ではなく、出来合いのカレー粉を用い小麦粉でとろみをつける英国式カレーであった。カレーの普及に大いに寄与したとされる軍隊の「カレー汁掛飯」の調理法も、カレー粉と小麦粉を使う英国式だった。ところでカレー粉は、18世紀後半にイギリスのクロス・アンド・ブラックウェル(C&B)社が製品化した。同社は、この「カレー粉」は東洋の神秘的な方法で製造されたとして、成分を秘匿していたため、その製法はなかなか解明できず、そのため長い間C&B社の製品が市場を独占していた。日本でもカレー粉については、長きにわたり、C&B社の製品以外は見向きもされなかったが、昭和初期のC&Bカレー粉偽造事件がきっかけとなって国産カレー粉が見直され、普及していったという。同書は、「インドを出発したカレーライスがいかにして日本に取り込まれ『にっぽんのカレー』として定着していったか、その過程を追いかける」なかなか読み応えのある本である。その趣旨からすると、著者のいうとおりやや傍論ではあろうが、エピローグにある「ライスカレー」か「カレーライス」かの議論は面白い。明治時代の書籍では概ねライスカレーとされていたものが、大正末から昭和初期にはカレーライスが大勢となったらしい。つまり料理の内容は変わらず呼称が変わったということのようだが、分類学としては吉行淳之介の説が、妙に説得力があって興味深い。「カレーライスとは、すなわちカリー・アンド・ライスで、本場のものもしくは本場に近いものというニュアンスが感じられ、一方ライスカレーは本場ものを翻訳して日本化したものという感じが」あり、「香辛料を色々使って複雑な味にしようとしているものはカレーライスで」「黄色くてどろりとして、福神漬けがよく似合うのがライスカレーである」という彼の説は、さすがである。どうでもいいことながら、大いに納得した。それにしても昼飯は少々食べ過ぎたが、カレーとなると必ず食べ過ぎてしまうのはなぜだろう。私が週の大半の昼食をとる社員食堂で、ご飯を盛りつける係の人の手元を、眼を凝らして観察したが、カレーライスのご飯の盛りは、自然体でも、定食のそれに比べて1.5倍以上あるようだ。しかも、定食を選択した人の半分ぐらいは「ご飯は少なめに」と依頼しているが、カレーの場合は逆で、3~4割ぐらいの人が「ご飯大盛り」と頼んでいた。さらに言えば、カレーライスの人のうち、サラダの皿も購入した人は2割ぐらいで意外に少なく、コロッケや揚げ春巻きのようなボリュームのある副食を追加した人が3割ぐらいいて…。閑話休題。自らの観察力を自慢するのは、このぐらいにとどめた方がよさそうだ。調子に乗ってカレー餡かけ焼きそばを大盛り2杯食べてしまった夏バテ気味の私だったが、同書を読み終えるころには、カレーのスパイスの効能ですっかりさわやかな気分になっていた。さて、夕食はプルコギでも作って栄養をつけるかな。(カレーで高揚してしまった私は、迂闊にも、家人が、私の作るにんにくと胡麻油をたっぷりと効かせた牛肉満載のプルコギを、どろりとした日本式ライスカレーと同じぐらい毛嫌いしていることを完全に失念していた。…気分がよすぎるときには注意せよ。)80 ファイナンス 2018 Sep.連 載 ■ 私の週末料理日記

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