ファイナンス 2018年8月号 Vol.54 No.5
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はなぜおもしろいかについて述べている。著者いわく、「江戸は近代と違うからこそ面白いのであり、近代にはすでに失われてしまった豊饒さをもつがゆえにおもしろいの」だから「江戸の中に近代の芽を見つけたり、元禄武士の生活に現代日本のサラリーマンの生活を重ねて打ち興じたりすることが、本当にそれほどおもしろいことなのか」と。確かにその通りかもしれない。しかし、私が自堕落先生の佯よう死事件に、共感に似た感情を持つのは、私のこれまでのサラリーマン人生を通じて身に染みついた価値観のようなものが、「死んだふりでもしていないと今の世の中やってられないよな」と、私にささやきかけるからなのだ。この点、著者は彼の「遺稿」から彼の思想を「人の生はすべて苦しい。しかし、また生ほど愛すべく重んずべきものはない。そこに私の死を願うゆえんのすべてがあるのだ」とまとめ、「自堕落の行いを愚といい切れる人が果たして何人いるだろうか」としている。現代サラリーマン社会的なボヤキと自虐との類似性でとらえるか、人生の深遠な難題を戯作的滑稽で佯いつわったものとみるか。まあ、毎晩呑んでくだまく当方と文化勲章受章の大学者との違いということなのだろう。あるいは、私が過ごしてきたサラリーマン社会が、江戸と同じく、既に失われてしまった、どうしても取り返しのつかない世界になりつつあるのかもしれない。オールドグッドデイズは、二度と戻れないからオールドグッドデイズなのだろう。せめて今晩は、「鳥獣魚ぎょ鼈べつの肉を好んで一年三百六十日鮮なまぐさけなければ物食わず。茶ちゃ好ずき酒さけ好ずきたばこ好ずき」の自堕落先生に敬意を表して、すっぽんはともかく、鶏胸肉、輸入牛肉、鰯の刺身ぐらいは食卓に並べ、オールドグッドデイズを懐古しつつ一杯やることにしよう。食後にはコーヒーを淹れてから、玄関の外に出て、虫除けスプレーの世話になりながら紫煙を燻らすことにしよう。〈材料〉 鶏胸肉4枚(皮を取り分けてから、塩コショウをふっておく)、セロリ1本(葉と茎の細い部分は切り分け、残りは4センチ長に切る。根元の太い部分は縦半分にする)、人参1本(皮をむき、先端と根元は1センチずつ切り分けておき、残りは横半分に切り、太い方は縦6等分、細い方は縦4等分する)、玉ねぎ中1個(皮をむき、縦半分に割り、根元側と先端側を1センチずつ切り分け、残りを厚めの切り)、白ワイン100cc、固形ブイヨン2、バター大匙2(1)蓋つきの鍋にお湯400ccを沸かし、鶏皮、野菜の切り落とした部分、固形ブイヨン、白ワインを入れ、火を止める。(2)鶏肉を入れ、蓋をして5分したら、鶏肉の上下を返し、弱火で70度位に加熱して火を止め、蓋をして5分。これを繰り返して20分煮る。(調理用温度計があればコンスタントに65度を保つように調整する。ない場合は、スープをスプーンにとって指で触っておおよそ判断する。)20分煮たら野菜の屑と鶏皮を取り出し、野菜を投入し、さらに10分煮る。(3)鶏肉を鍋から取り出し、バットなどに取る。野菜も取り出し、別の鍋に入れ、スープをおたま2杯加え、蓋なしの中火で煮る。沸騰しそうになったら火を絞る。(残ったスープは、朝食用に取っておく。)(4)フライパンにサラダ油大匙2をひき、強火にして鶏肉を入れ、肉の上から油大匙2をかけ、適宜上下を返して、手早く軽く焼き目をつける。(5)皿に鶏肉とつけあわせの野菜を並べる。(6)(3)の鍋にバターを加え、火を強くして、へらかスプーンで攪拌して乳化させ、ソースとして料理にかける。 * 先日大奮発して家人と行ったフランス料理店で食べた鶏料理が素晴らしかった。柔らかくしっとりとした胸肉と、かりっとした食感で香ばしい腿肉の組み合わせ。山椒の香りを利かせた腿肉のローストも実においしかったが、胸肉には驚かされた。魚のブレゼ(蒸し煮)のようにふっくらと旨味に満ちていて、鴨のコンフィ(オイル煮)のようになめらかであった。シェフに調理法を尋ねたら、60度のスープで数十分煮るのだそうだ。低温で煮る調理法はポシェ(pochés)と呼ばれるが、英語でいうとポーチトエッグのポーチである。あのシェフの技法は到底まねできないが、今回は、低温のスープで煮てやわらかく胸肉に熱を通した後、ごく短時間高温でソテーして、表面だけかりっとさせてみた。** 余談ながら、我が国で庶民が鶏肉を食べられるようになったのは昭和初期以降である。大正期に鶏卵増産運動が展開されて養鶏が盛んになり、ひなの雌雄鑑別技術も実用化が進み、不要となった雄ひなを肉用に利用することが行われるようになって、ようやく、鶏肉は庶民の手の届くところまできたが、まだまだ高級品で「ハレ」の御馳走であった。その頃の鶏肉の規格は、特等、1等が若鶏、2等、3等が老廃鶏であったところ、3等が牛肉のロースと同じ値段だったという。鶏肉が牛肉より安価な食材となったのは、戦後、ブロイラーが導入されてからのことであった。鶏胸肉のポシェ風のレシピ(4人分) ファイナンス 2018 Aug.73新々 私の週末料理日記 その24連 載 ■ 私の週末料理日記

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