ファイナンス 2018年8月号 Vol.54 No.5
37/88

第3条は、条約交渉会議2日目に議論になった開港・開市規定である。この条では、(ア)1859年1月1日より箱館、神奈川(現在の横浜)、長崎を開港し、フランス人の常時居住を許す(軍事施設の建設は禁止)(イ)1860年1月1日より新潟(開き難い場合は他の一港)を開港、1863年1月1日より兵庫(現在の神戸)を開港し、フランス人の常時居住を許す(同じく軍事施設の建設は禁止)、(ウ)1862年1月1日より江戸に、1863年1月1日より大坂に、それぞれ商売を営む場合に限りフランス人の居住を許すことを規定している*22。(ア)及び(イ)に関する居留地の区画や港湾規則は、和文では各地の日本役人とフランス領事が相談して定めることが規定されている*23。また、第2条の外交官・総領事の国内旅行の自由と異なり、通常のフランス人の移動は、○神奈川(横浜)からは多摩川を越えずにその他の地域は約39km四方、○箱館は約39km四方、○(京都から39km以内に入らない範囲で)兵庫から39km四方○長崎は周囲の御料所の範囲内に制限され、新潟、江戸、大坂については日本政府と*22) 実際に期日通り開港されたのは箱館、神奈川、長崎(1859年1月1日)のみで、その他の開市・開港は攘夷運動の高まりから1862年にフランスとの延期交渉の末、延期されている。*23) 仏文では、フランス領事が日本の地方の当局と協力の上定めることとされており、文法上は制定主体がフランス領事ということになってしまっている。フランス外交官との協議で今後決定するとされている。なお、日米条約第3条、日蘭条約第2条、日露条約第3条、第5条及び第6条、日英条約第3条にも同様の開港・開市規定があるが、いずれも外国人の居住・移動の範囲を限定すると規定している。安政の5ヶ国条約は日本側に不利という意味で不平等条約と言われるが、(当時は日本が自ら日本人の海外渡航を禁止していたとはいえ)欧米の相手国では日本人の居住・移動制限を設けていなかったことを考えると、本条は日本側に有利なものとなっており、安政の5ヶ国条約がすべて日本に不利だったわけではないことが分かる。ちなみに、上記(ア)の3港の順番は、仏文及びカタカナ文ではアルファベット順に箱館、神奈川、長崎となっているが、漢字かな混じり文のみ神奈川、長崎、箱館の順となっている。また、新潟について、仏文では「適切に入港できる港を有さない場合」、カタカナ文ではそれを訳して「もしその港入口悪しき節は」と入港アクセスを問題としているのに対し、漢字かな混じり文では「もし其港を開き難き事あらは」と一般的に開港できない場合にはというニュアンスになってしまっている。このように、ここでも仏文とカタカナ文の類似と、カタカナ文と漢字かな混じり文の違いを見ることができる。兵庫港並村を午八月より凡五十一ヶ月の後より 一千八百六十三年一月一日 開くへし開きたる港は佛蘭西人に居留を許すへし其居留の地は一ヶ所にして價を出し地をかり住宅倉庫を建る事をも許といへとも是を建るに托して要害の場所を取建へからす此掟を守らしめんか為佛蘭西人家を建又は普請する節は日本役人時々見改むへし佛蘭西人住宅倉庫を建る地は日本役人と佛蘭西コンシユルと相談の上定むへし港々の定則は日本役人と佛蘭西コンシユルと相談の上定むへし若議定しかたき時は佛蘭西のミニストルと日本政府とへ申立相談の上取計らふへし佛蘭西人居留の場所へ垣屏等の圍を設けす出入自在にすへし佛蘭西人遊歩の規程左の如し神奈川より六郷川筋迄歩行すへし 其川は川崎と品川との間にあり 其外は十里迄行へし箱館は十里四方へ行へし兵庫も同様なりしかし京都の方へは何れの方より参るとも十里手前にて止むへし佛蘭西舩々の乗組人は猪名川筋を越へからす 其川は兵庫と大坂との間にて摂津の海に入る川也里数は役所又は御用所より陸路の程度なり長崎は其町の周圍にある御料所を限とす新潟又は右に代る港遊歩の規程は追て日本政府と佛蘭西のミニストルと相談の上定むへし只商賣を致す間にのみ佛蘭西人一千八百六十二年一月一日より江戸へ在留すへし一千八百六十三年一月一日より大坂へ在留すへし又右二ヶ所において佛蘭西人日本の家を價を出し借るへき一區の場所並散歩の規程は追て日本政府と佛蘭西のミニストルと相談の上定むへし ファイナンス 2018 Aug.33

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る