ファイナンス 2018年8月号 Vol.54 No.5
32/88

たことが分かる。次に、日仏条約でのキリスト教の扱いについて述べている。神父である彼は、日仏条約の成果には不満であり、「宗教の問題は一歩も進まず、信仰の自由は居留外国人にのみ適用され、また日本で用いられてきたキリスト教信仰に対する冒瀆的な行為(踏絵)による侮辱を行わないとされたのみ」と辛口の評価を述べている*10。また、開港など貿易に関してはアメリカ、ロシア及びイギリスと同様の利益を得たと述べつつ、日本人と直ちに貿易を始めるのは可能だが、役人の目が光っており、貿易の規則は日本側に都合良く定められ、貿易阻害的な検査も可能となっていると指摘している。メルメ=カション神父は、このような「不完全な成功」しか収められなかった原因は、第一に、それ以上のことをフランス側が欲しなかったためで、日本の案件を軽く見すぎてより大きな問題を惹起するに至らなかったこと、第二に、贈物も軍事力もない使節団は成功しないし将軍の最近の死があるから幕府が条約交渉を拒否しているのだ、という根拠の薄い懸念を抱いてしまっていたこと、第三に上海に早く戻ってエルギン卿と合流し清との関税率の見直しに入りたかった(ため日本との交渉終結を急いでいた)ことを挙げており、同神父のグロ男爵の交渉態度への批判的な見方が垣間見える。フランス使節団は、10月11日、真福寺を出てフランス軍艦に戻り、12日に江戸を出港、16日に長崎に到着しオランダのドンケル=クルチウス出島商館長に会って条約蘭文の仏文訳を頼み、長崎奉行に会った上で、22日に長崎を出港し24日に上海に到着する。そして、ド=モジュ侯爵が、翌年の批准に備えて、条約文をパリに持ち帰るのである。*10) エリク・セズレ著「フランス・日本間の江戸条約:当事者と論点」(《Le traité d’Edo entre la France et le Japon:acteurs et enjeux 》 par Eric Seizelet)757頁によると、当時のフランス外務省は、日本に対しては、「深い不信を惹起してすべてを壊すようなことにならないよう宗教問題は何より避けることが適当である」という方針だったとしており(外務省アルマン=プロスペール・フォジェール局次長からのヴァレウスキ外務大臣宛てのメモ)、宗教問題は日仏条約交渉上、大きな論点とはなっていなかった。4日仏修好通商条約の内容フランス外務省外交史料館には、フランス側が持ち帰った和文(漢字かな混じり文2通、カタカナ文2通)、仏文(2通)、蘭文(2通)が所蔵されている。特に、漢字かな混じり文の条約は、見事な筆致の草書体で書かれており、これ自体が一つの芸術作品とも言うべき条約文である。また、カタカナ文の条文は、その存在に触れた研究はあるもののほとんど研究対象となったことはなく、条文そのものを掲載するのは本稿が初めてと思われる。以下では、条約交渉が仏文のカタカナ文への翻訳に基づき行われたと考えられることを踏まえ、フランス外務省外交史料館所蔵の日仏条約をまず第3条まで仏文(筆者による現代語仮訳)、カタカナ文、漢字かな混じり文の順番で掲載する。なお、仏文原文は本文末に掲載する。仏文、漢字かな混じり文とも、日本又はフランスにおいて過去の条約集に収載されているものと表記が違う点があるが、本稿では同史料館所蔵の日仏条約の条文2揃いのうちの1つを再現したものである点、留意されたい(当時は手書きで条文を作成しているため、写し誤りがあり、実は2揃いの条文の相互間でも食い違いが見られる)。なお、漢字かな混じり文の旧漢字は可能な限りこれを使用する一方、変体仮名は現用仮名に統一した。フランス外務省外交史料館所蔵の条約の前文部分(漢字かな混じり文とカタカナ文)28 ファイナンス 2018 Aug.

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る